槇原敬之の母から“スカウト”された

――高校を卒業した後は、実家で働きながらバンド活動を続けていたんですね。

ROLLY 実家で働いていたころは、月給が5万円。そこからバンド活動もやっていたのでとにかくお金がなかったですね。すかんちは曲が独特で、レッド・ツェッペリンとフィンガー5と山本リンダとおニャン子クラブを合わせたようなロックをやるバンドで。「どんな音楽?」って感じですよね(笑)。

 奇抜過ぎたのか人気はゼロで、お客さんも5人くらい、しかも全員友達という苦しい時代が続いていました。周りのバンドはどんどんデビューしていったのに、気付くと自分たちだけが残されて。

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 当時は20歳くらいでデビューするから、僕みたいにずっとアマチュアで音楽をやっている人なんていなかったんです。デビューしていない仲間が音楽を辞めて就職しだしたから、自分もそろそろかなって考えていました。

 そんなある日、父親が心筋梗塞で倒れてしまって。24歳くらいだったと思います。僕が実家の店を継ぐか、継がないかをいよいよ考えなければならなくなって。

父が病気に倒れ、究極の選択を迫られた ©文藝春秋/橋本篤

――実家はそれなりの名家だったそうですから、悩みますよね。

ROLLY そうしたら、いとこの槇原敬之のお母さんが家に来て。向こうはうちの店の支店をやっていたんですが「一雄ちゃん、実家で働くのもええけど、うちであんたを雇ったる」と。続けて「給料もちゃんと払うけど、その代わり音楽は辞めてもらう。商売の厳しさを、お尻から水が出るほどたたき込んだる!」って言われて……怖かったです(笑)。

 そんなこんなでいろいろ悩んでいたのですが、その頃から徐々にすかんちの評価が高まって行って、本当に奇跡的なタイミングでレコード会社の人から電話が掛かってきました。

THE BOOMやMr.Childrenを押しのけてメジャーデビュー

――ドラマティックな展開ですね。

ROLLY 電話に出ると「お前をマディソンスクエアガーデンでコンサートできるようにプロデュースしてやる!」と言われたのはよく覚えていますね。

 騙されているのかな、ってちょっとは思いましたけど(笑)。会いに行ったら本物でした。ただ、いきなりデビューではなく、あくまでオーディションを受けないかという誘いでしたが。 

――その結果、見事デビューをつかみ取り1990年に26歳でCBS・ソニーレコードから「恋のTKO」をリリースしました。

ROLLY 当時のオーディションにいたのは、THE BOOMやMr.Children(当時はTHE WALLS)といった、錚々たる顔ぶれでしたね。いじめられていたころ、母の実家で蝉の抜け殻を見つけて「ずっと土の中にいた蝉は、羽が生えて変身する。同じように自分も、誰かが迎えに来てくれて、違う世界に連れて行ってくれる」と考えていたのですが、ついにその時が来たぞ、とこのときに確信しました。

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