2012年、19年に人気を集めた週刊文春「私の大往生」の新シリーズ。初回は今年デビュー60周年の加藤登紀子に理想の最期と人生について話を聞いた。 (幼少期編からの続き)

 大学生の兄が学生運動に励む姿を見ていたので、私も高校生ながら、デモに参加しました。しかし若者たちの思いや払った犠牲も虚しく、新安保条約は成立。私たちは大きな挫折を経験しました。その時、肩を落とした兄に対して、母はこう言ったのです。

「挫折なんて笑わせるわ。どんなに負けてもいいから、やり続けるのよ。誰かが声を上げ続けることが大事なんだから」

 その母の言葉は私の心に深く突き刺さりましたね。ただ一方で、この時学生運動の限界を肌で感じたのも事実で、東大進学後は政治的な活動とは距離を置いたんです。

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 そんな私に父が勧めたのが、「日本アマチュアシャンソンコンクール」への出場でした。「人生はおもろないといかん! 歌手になれ!」って(笑)。常識から外れた親だったんです。

 父と母が経営するロシア料理レストランでシャンソンに親しみ、エディット・ピアフに心酔していた私。おまけに優勝者にはヨーロッパ旅行のご褒美があると知って、それなら受けてみよう、と。そして第2回のコンクールで優勝を勝ち取り、在学中に歌手デビューしました。

デビューの頃

獄中結婚し、30年連れ添った

 それからもいろいろな事件がありましたね。68年、ソ連によるチェコ侵入が起こった時、私は40日間の演奏旅行のためにソ連に滞在していました。後に独立したバルト三国からジョージアまで回っていたけれど現地では報道がなく、帰国してからその事実を知りました。その18年後、バルト三国のラトビアの反体制作曲家が作った「百万本のバラ」を歌ったことには不思議な巡りあわせを感じます。

 95年には北海道公演に向かう途中で「全日空857便ハイジャック事件」に巻き込まれました。オウム真理教の信者を名乗る犯人に粘着テープで目隠しされ、「死」も覚悟しましたが、率直に言って、怖いという気持ちはなかった。「そうか、終わるんだな」と思いながら、頭の中には自分の追悼番組が流れていましたから(笑)。

 そんな加藤にとって、忘れられない死を遂げたのが、「獄中結婚」し、30年連れ添った藤本敏夫氏だ。

この続きでは、藤本敏夫氏との関係、理想の最期について現在考えていることなどを語っている/第1回とあわせてお読みください

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加藤登紀子(81)が語る「理想の最期」|私の「大往生」連続インタビュー①

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