理想の最期について聞く「私の『大往生』」。第2回は世界最高齢の現役プロデューサーとして今も活動を続ける石井ふく子。「死が怖いと思ったことはない」と語る彼女が明かす、盟友・橋田壽賀子との「最期の日々」とは。

 『渡る世間は鬼ばかり』『肝っ玉かあさん』など数々のヒットドラマを生んできた石井ふく子(98)。「世界最高齢の現役テレビプロデューサー」としてギネス世界記録に認定され、今なおプロデューサー、演出家としての活動を続ける石井は、100歳を目前に、「自分の最期なんて考えたこともない」と語る。

今年9月で99歳

前回からの続き/第2回〉

 母は東京・下谷区数寄屋町の花柳界で人気の芸者で、1926年、22歳の時に未婚で私を産みました。

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 出産予定日は9月の半ばだったそうですが、その年の9月1日が陰陽道でいう「天一天上」の日に当たり、この日に生まれると生涯に渡って人の縁に恵まれるらしいと知った母は、医師に頼みこんで無理やり、帝王切開で私を産んだのです。

人気芸者だった母と

 母は、夜はお座敷、昼はお稽古や髪結いで忙しくしていたので、「産んだ後は、母親らしいことは何もしてやれないだろうから」という思いがあったのでしょう。実際、幼い頃に母に面倒を見てもらった記憶はほとんどありません。朝起きると、自分のコーヒーを淹れて飲んで、私の世話なんかしてくれない。それが子ども心に寂しくて、今でもコーヒーは受け付けません。

戦争なんかで殺されてたまるか

 母は私を産んだ後に新派の俳優・伊志井寛と出会い結婚しましたが、私はほとんど一緒に暮らさず、祖父母に育てられました。戦前の小学校時代は、毎月1日に日の丸弁当を持っていくという決まりがありましたが、私の誕生日の9月1日だけ、祖母は鮭の身をほぐしたのをご飯の間に入れてくれて。そうやって母の代わりに愛情を注いでくれた祖母が亡くなったのは、まだ10代の頃。悲しみで泣き崩れる私に、母は「あんたの母親は、私だよ」と。それくらい、構ってもらえない子どもだったんです。

 戦争が激しさを増したのは、その後だったでしょうか。空を見上げて焼夷弾を避けながら懸命に走り、「ああ、今日も生きられた」と安堵する。「戦争なんかで殺されてたまるか」と、とにかく生きるために必死でしたね。級友を目の前で亡くしたこともありましたが、「死が怖い」と思ったことはありません。そんなことを考えていては、生きてゆけなかったからです。その考えは、今も変わりません。死について考えているような弱気じゃダメなんですよ。

 終戦後、石井はTBSに入局。以来、ほぼ休みなくプロデューサーとしてドラマを作り続けてきた。今の仕事を天職と思うか尋ねると、「自然になっちゃったからね」と笑う。

この続きでは、TBS入社後にタッグを組んだ橋田壽賀子、親交のあった京マチ子とのやりとりや、2人の最期、自身の理想の最期について詳しく語っている〉

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石井ふく子(98)が語る「理想の最期」|私の「大往生」連続インタビュー②

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