美智子さまとツーショットも

 さらには1958年に皇太子(現・上皇)との婚約が発表された正田美智子さん(現・上皇后)とも、東京・東五反田の正田邸から宮中へお妃教育に出かけられるタイミングを狙い、玄関前で芸能雑誌『平凡』のカメラマンと一緒に待った末、松島が駆け寄って花束を渡すところを写真に収めた。《宮内庁の了解を得ていたとはいえ、約束も何もなしですから、牧歌的な時代だったんですね》とのちに松島は振り返っている(『文藝春秋』2006年5月号)。

右が正田美智子さん(当時/現・上皇后) ©文藝春秋

 多忙で学校にはなかなか行けなかったが(代わりに教師に家まで来て教えてもらっていた)、たまに登校すると、松島の出ている雑誌を手にしたクラスメイトの周囲に人だかりができていたという。それにもかかわらず、当の松島とクラスメイトが遊ぶことはほとんどなかった。同級生たちからすれば、雑誌に載っている松島とすぐそばにいる松島とは別人のように感じていたようである。彼女自身も《虚像と実像の谷間にいて、子供ながら器用に二つの役を使い分けていたように思う》と顧みる(前掲、『母と娘の旅路』)。同年代の友達と遊ぶ機会がなかったため、松島はいまだにじゃんけんのやり方すらわからないという。

 松島は15歳になっていた1961年春、東宝演劇部と契約して舞台にも活動の場を広げた。喜劇王・榎本健一が座長を務める「雲の上団五郎一座」に出演したのもこのころである。歌手としてもレコードを出し続け、ジャズやミュージカルナンバーなど洋楽のカバーにも挑戦した。しかし、ロカビリーなど新手のジャンルから10代歌手が続々と出てくるなかで、清純な少女歌手のイメージがなお強かった彼女は押され気味であった。

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『週刊文春』1961年8月21日号

18歳の春にアメリカ留学へ

 彼女のなかでも思春期に入ると、芸能界には自分で選んで入ったわけではないとの思いが募っていった。ついには5本くらい抱えていたテレビのレギュラー番組から全部降りて、アメリカへ留学に飛び立つ。1964年、18歳の春だった。ニューヨークの全寮制女子校「ザ・マスターズ・スクール」に入学するため、まだ雪の降りしきるジョン・F・ケネディ国際空港に降り立ったとき、生まれて初めて一人になったことに気づいて心細くなったという。