しかし、言葉の壁を乗り越えながら、勉強についていくのが大変で、ホームシックになる暇はなかった。しだいに寄宿舎生活にも慣れ、日本に居たときにはありえなかった人目を気にすることのない日々を満喫するようになる。
長期休暇中には、モダンダンスやジャズダンスのスクールへレッスンに通った。ザ・マスターズを卒業後は、そのうちモダンダンスの世界的なダンサーであるマーサ・グラハムの学校に正式に入学し、アパートで一人暮らしを始めた。当時は1ドル=360円の固定レートの時代で、安くないレッスン料を捻出するため稽古着は手洗いするなどやりくりしたという。
“差別に悲しくなった”アメリカでショックを受けた出来事
留学中の1965年に出版してベストセラーとなった著書『ニューヨークひとりぼっち』(集英社)には、ニューヨーク世界博覧会やビートルズの全米進出などきらびやかな出来事がつづられる一方で、アメリカ社会のなかでアフリカ系の人たちが差別される現実も記されている。ザ・マスターズの同級生が「白人の男性が黒い肌の女性を連れて歩くのは我慢できる。それは彼が“あわれな動物”の面倒を見てやってると思えるから。だけど、黒人の男が白人の女性を連れて歩くのは許せない」と言うのを聞いて、悲しくなったこともあった。
それでもアメリカで勉強を続けたいと思っていたが、祖母から一度帰ってきなさいと手紙が来て、一時帰国する。だが、その2週間後に祖母が亡くなり、アメリカに戻るきっかけを失い、留学は約2年半で終了した。
子役イメージを求められることへの葛藤
帰国後、芸能活動を再開するが、なおも子役時代のイメージを求められることに葛藤を覚えたという。しだいに人と会うのがいやになり、一人部屋にこもってヤケ酒をあおるようになる。そんな彼女を心配して、母が気分転換にと建て替えた家も、あろうことか引っ越し間近に火事で焼けてしまった。逆に落ち込む母を見て、松島はもういちど家を建て直すと宣言、これを契機に少しずつ自分を取り戻していった。あれほど飲んだ酒もぴたりと体が受けつけなくなったという。

