トリプル受賞『ダブル・ファンタジー』待望の続編
――新作『ミルク・アンド・ハニー』(2018年文藝春秋刊)は、大評判となった『ダブル・ファンタジー』(2009年刊/のち文春文庫)の続篇ですね。前作では人気脚本家の高遠奈津が、マネージャー的な立場である夫からの抑圧に苦しんで家を出、敬愛するベテラン演出家に恋をするも破れ、大学の先輩とは友好的な性関係を築き、年下の大林と新たな関係が生まれ……という性愛を突き詰めた大作で、中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞のトリプル受賞も達成。続篇を書くことはいつから意識されていたのですか。
村山 『ダブル・ファンタジー』を書き終えた時、最後に奈津が見ていた光景と別の光景を自分自身が信じることができなければ、続篇を書く意味はないだろうと思っていました。あのラストは奈津が、自由である限りは孤独も引き受けなくてはいけないという、言ってみれば当たり前のことを身をもって体得して、荒野で風に吹かれながら立っているイメージでいたんです。その後、私自身がそれとはまた違うところに辿り着けたかなと思い、「続篇をやらせてください」って言いました。
――前作も今作も、ゼロから創作したというよりは、かなりの部分でご自身の実体験がベースにあると思うんです。この、実体験と創作との関係性ってどうとらえていますか。
村山 言葉にする前は実体験だと思えていたものも、いざ小説にしてしまうと、さてどれが本当にあったことだったのかなって、自分で分からなくなってしまうというか。現実にあったことと非常に近い事象や感情を書いていても、言葉を通した時点でフィクションになってしまうんですよね。フィクションにならないといけないと思って書いていますし。その分、書き終えると書き始める前よりもずっと距離が遠くなっているというか、「切り離し完了」みたいな感覚になります(笑)。
10年前の『ダブル・ファンタジー』で議論になった「女性のモラル」
――ただ、読み手のなかには「どこまでが本当の話なんだ」「誰がモデルだ」と好奇心を示す人も多いですよね。ですから、書くのに覚悟も要るのでは?
村山 そうですね。『ダブル・ファンタジー』の時に懲りたはずだったんですけれどね(笑)。
――あ、相当言われたんですか。
村山 言われましたね。女性のモラルという意味合いにおいて、本当にいろんな言われ方をしました。本当に旧態依然としたモラル観で後ろ指さす人もいましたし、自分の身の回りのことをこんなに、周囲の人間には反論の機会がないのに書いてしまうのはどうなのよって言う人もいました。母とのことを書いた『放蕩記』(11年刊/のち集英社文庫)の時に相当言われました。母が認知症になったからといって母親との確執を書くのは卑怯だ、って。それはともかく、『ダブル・ファンタジー』に関しては生理的にああいうものが許せないという人からもいろいろ言われました。刊行したのがほぼ10年前だから、今以上にそういう反応がありましたね。
不思議なことに厳しいことを言う方って、女性の方が多かったんですよね。男性は結構「まあ、こういうふうな苦しみもあるのか」とか「いやこんな女とは俺はつきあわない」とか、ちょっと距離を置いた感じの批判が多かったんですけれど、女性で受けつけられないという方は、作品を否定するのではなく書き手の人間性を否定する形でいましたね。それはしんどくて、内臓にボディーブローが効いたみたいに感じるヘタレの私が半分いて、でも半分はどこかで「してやったり」の気持ちもありました(笑)。
渡辺淳一先生が「文章さえ寝なければいいんだよ」
――「してやったり」と思えるとは、さすがです。作家だなあ。
村山 連載中だったと思いますけれども、渡辺淳一先生と対談の機会があって、「特に官能的なものを書く時、どこからが露悪で、どこまでが人間を深く書いたことになるのか分からなくなることがある」と話したんです。そうしたら「文章さえ寝なければいいんだよ」って。「中の誰がどういうふうに誰と寝ようと、文章が立ってたらそれはポルノじゃなくて文学だ」って。すごいことおっしゃるなと思って。
その『ダブル・ファンタジー』で3つの賞をいただいた時に、柴田錬三郎賞の選評で渡辺先生が「よくここまで書いたと思うけれど、欲を言えばラストに今少しの膨らみと、性に対する思索的実感があればなおよかった。けれどもここまできたら、時間の問題だろう」と書いてくださって。当時は何を言われているか分からなかったんですよ。何が足りないんだろうと思ってものすごく悩みました。『ミルク・アンド・ハニー』でちょっとその答えが掴めたかなあと自分では思っていて、渡辺先生に読んでほしかったなって思いますね。