予測できない事態にどう対処するか?
それは一体どういうことなのか? ここであらためて学びの本質について考えてみましょう。
人類は、700万年間のほとんどを狩猟採集生活で過ごしてきました。この原初の生活での学びは、大人がこれを教えたいという計画を持っているわけではなく、「予測できない事態にどう対処するか」を実践のなかで教えていくことでした。
子どもたちに自分で何かに対処する機会を与えることが重要で、そもそも自然は(とりわけ熱帯雨林は)、既存の知識がそれほど役に立つわけではない。自然は同じことは決して繰り返さないので、新しい予想もしなかったような変化が目の前で起こったときに適切に対処する力が必要になってくるわけです。
最適解でなくていいから、ちょっと間違えてもいいから、まずは自分が死なないように生き残れる対処をしないといけない。
たとえば、ゾウの機嫌を損ねたらすぐに襲われて絶命しますし、カバなんかもっと凶暴で危ない。水中でワニに嚙まれたらひとたまりもないし、まわりには毒蛇や毒虫だってうようよいる。自然界では、そういう危険なものに思いがけず出会うことが多々あるわけです。
ジャングルのなかは、視界をさえぎるいろいろなものがあって見通しが悪い。奥に隠れているものを察知しながら、その場その場で適切な行動を取っていかなければなりません。あらかじめ計画をたてても無駄になるかもしれず、目まぐるしく移り変わる状況に柔軟に適応する必要があります。
西田幾多郎のいう「見えないものを感じとる力」
絶え間なく変化する存在である自然に適切に対処していくには、「直感力」を磨くことが不可欠です。それこそ学びの場で鍛える必要がある。
京都大学の哲学者・西田幾多郎が「幾千年来我らの祖先をはぐくみ来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云ったようなものが潜んでいる」(『働くものから見るものへ』1927年)と記しています。
日本人は元々森の民でした。あらゆるものが隠されている森のなかでは、見えないものを感じとる能力が必要で、突然目の前に訪れた事態に咄嗟に直感的に対処する力をはぐくんできたのです。
イスラム文化圏のアラブや、キリスト教が生まれたユダヤの地のように草原や砂漠の環境では見通しがいいので、脅威があっても安全な距離を保っていれば何事も起こりません。見えている世界のなかで、相手が次にどう動くのかを推察すれば事前に対処ができる世界と、森は対照的です。
いずれにせよ、生き残るために「直感力」や「想像力」を鍛える学びが、人類の進化の99%を通じて行われてきたわけです。

