「どう老いるか見直すきっかけになった」「人類史的スケールで老いのイメージが一変した」と発売以来、反響を呼ぶ『老いの思考法』。著者の山極寿一氏が、その死生観について語った。
(※本稿は、前掲書から一部抜粋したものです)
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動物は死から生を考えない
動物は死を元に自分の生き方を考えるわけではありません。あくまで死は「訪れるもの」です。
長年ゴリラを研究してきて言えるのは、彼らは他の個体の死も見ていて、死はどういうものであるかは知っています。だけど、それに対して身構えながら生きていくことは一切ない。あるがままに生きています。
ゴリラが死を目前にしたときは、野生でも動物園でも、だんだん食べなくなります。食が細くなり、筋肉や脂肪も落ちて、どんどんガリガリになっていく。体力が衰えて、死とどう向き合うか最後は耳もあまり聞こえなくなり、自然にスーッと死んでいく。それはまるで仏教の世界でいう即身仏―食を絶って聖なる存在になっていくようにすら感じます。
それは一番いい死に方という気もします。
ひるがえって、人間は、いつのころからか死を前提に人生設計をするようになりました。
有性生殖をする動物は、次世代に自分の生を譲ることが宿命づけられています。無性生殖の生き物は、分裂してクローンをどんどんつくって生きているので世代交代という概念がありませんが、有性生殖をする動物は減数分裂をして、新たな組み合わせで、新しい世代を作るわけです。
ダーウィンの進化論では、自分の子孫をより多く残す個体の遺伝子が継承されていくと考えますが、人間はそこに「自分」という自我を芽生えさせました。
動物も、個体は個体として生きていますが、そこで自分の生き方を設計したり、自分と他者の違いを認識して、それを際立たせるためにアイデンティティを考えたりはしません。自他の境界が曖昧で、自分を動かす主体にもなれば、集団に溶けてしまう「私たち」としての存在でもある。
しかし人間は常に自分を意識させられてしまう存在で、死を前提に、有限の生のあり方を考えながら、生き方を考えます。宗教においては自分を見ている超越した存在があると考えますし、教育を通じて、自分を社会から見た視点で捉えることもできます。
自分を外から俯瞰して見る視点は、人間に固有の認知能力です。

