狩猟採集民的な学びのモデルの復権を
いまの私たちの学びのスタイルは、「あらかじめ決められたこと」を知識として学ぶことが中心です。農耕社会のはじまり以降、計画性や管理の必要性が高まり、近代国家が成立する過程でも、同じ言語で同じ価値観をもつ工業社会に順応した人材を育てることが求められてきました。
でもこれからは、みんなで一斉に同じことを教えられる従来のスタイルでは、知識で対処できることがどんどん少なくなる時代において、あまりためにならないかもしれません。
既存の知のフレームワークにはない未知に対して、適切に対処していく力を身につける―つまり狩猟採集民的な学びのモデルこそ、現代の教育に真に必要なのです。
日々変化する自然や動物を相手に瞬時に適応していく直感力を磨くことが、人間の本来的な学びです。
知識をそのまま伝えるのではなく、経験知を応用可能な「知恵」に変えつつ、まだ見ぬ新しいことを予感しながら、一緒に考えて、一緒に企画し、子どもが自分のできることに目覚めていくような教育のあり方です。
高齢者は経験知を豊富にもっています。たっぷりと時間があって、生産性を求められない自由な身です。だから、子どもたちと一緒に、未知なものに対して、どういう風に対処したらいいのかを考えることができます。
私の幼少期を振り返ってみても、東京郊外の町の自然のなかで虫取りをしたり雑木林を探検しては、夢中になって『十五少年漂流記』や『ロビンソン・クルーソー』の真似事をしていました。親父よりも祖父のほうが気が合ったから、よく遊んでもらっていました。祖父は髪結いの亭主みたいな生活だったので、いつも暇だったんですよ。
だから親父は逆に真面目なサラリーマンになったんだと思います。親父は近郊の山登りによく連れて行ってくれましたね。
祖父をはじめ、近所のおじいちゃんで、大工仕事の経験があるような人たちが、いろんな道具の使い方を教えてくれて、自然のなかで何かを作ったり遊びを発明するやり方を教えてくれたのをよく覚えています。
遊びなんて、あらかじめわかっていることを繰り返してもちっとも面白くありません。次々と新しい要素が出てきて、そこに向かって自分の身体で対処する。それを一人じゃなくてみんなで遊ぶからこそ、創意工夫や発明ができて面白い。
現代の子どもたちが熱中している遊びは、最初からルールが決まっている遊びです。テレビゲームやオンラインゲームなど、遊び方が決まっていてデジタル機器からの刺激も強く、たしかに面白いんでしょう。
