ダンスミュージック全盛期に「バラードで行きたい」
出来上がった曲は恋人との別れを歌ったバラードであった。彼女の言うとおり、たしかにあのサビはキャッチーで、甘く切ない歌唱もあいまって一度聴けば忘れられない。しかし、当時は小室哲哉プロデュースに代表されるダンスミュージックの全盛期とあって、マーキュリー側は当初、移籍第1弾をスローバラードで勝負するのは危険すぎると考えたらしい。これに対し聖子は冷静に「バラードで行きたい」と主張したという(『週刊朝日』1996年6月7日号)。
ふたを開けてみれば同曲は、コピー機のCMで女優の夏目雅子(1985年死去)の在りし日の映像のバックに流された効果もあり、発売の前月には早くも20万枚分の予約があったという。結果的に聖子のプロデュース力が証明されたことになる。ちなみに聖子は夏目雅子と、その夫の伊集院静が自身のコンサートを演出していた縁から親交があり、ずっと憧れの人であった。
「あなたに逢いたくて」に続き、聖子はシングル「Let's Talk About It」「I'll Be There For You」、アルバム『Vanity Fair』『WAS IT THE FUTURE』、ビデオクリップ『Vanity Fair』と、わずか1ヵ月半のうちに日米双方で作品を怒濤のようにリリースしている。この間、1996年5月には主演した日米合作映画『サロゲート・マザー』が公開され、6月からは全国ツアーも始まり、多忙をきわめた。
松田聖子というと、とかく80年代、とくにデビューから1985年に最初の結婚をするまでの約5年間の楽曲がクローズアップされがちだが、そのなかにあって「あなたに逢いたくて」はいまだにカラオケでも歌われ、聖子の90年代の代表曲となっている。そう考えると、この曲があったからこそ、彼女は現在まで半世紀近くにわたり歌手を続けてこられたと言っても過言ではないだろう。
「いつか百恵さんのように、引退、結婚という道をたどります」
とはいえ聖子は、デビュー当初、人生を通して歌手を続けようとは必ずしも思っていなかったふしがある。その証拠に、出す曲がことごとくヒットチャートでトップを獲得していた1982年に刊行された彼女(当時20歳)の著書『青色のタペストリー』(CBS・ソニー出版)を読んでいると、こんな一文と出くわす。
《私もいつか百恵さんのように、引退、結婚という道をたどります。そうして私が、幸福な家庭の奥さんになった時、はじめて私と百恵さんとのあいだに、共通するものがいろいろと生まれてくるんじゃないでしょうか。そしたらお互いのベビーを抱いて、おしゃべりする機会があるような気がします》
