のべ300万人が動員された極秘計画
ともあれ、こうして長野・松代に大本営の造成が決定し、1944年11月11日から本格的な工事がはじまった。
朝鮮人労働者を含めてのべ300万人が動員されたという。朝鮮人労働者のために慰安所まで設けられていたというから、まるで新しい都市がひとつ松代に現れたにひとしい。
ただし、地元の松代の人たちには、この工事が大本営のものだとは知らされていなかったという。
それでも多くの資材が次々と運ばれて、たくさんの労働者がやってきた。時勢も時勢だけに、何かしら重大な工事であることは察しがついていたのは間違いない。
梱包が崩れた荷物から「宮」の文字と菊の紋の一部が覗き、宮城関係の施設で天皇が松代にやってくるのでは、などと噂になっていたらしい。
そうして建設が進んでいった松代大本営。内部の見学ができる象山地下壕のほかに、舞鶴山・皆神山の三地区に分かれていた。
象山には政府機関やNHK、舞鶴山には大本営と皇居(御座所)、皆神山には食料庫などと役割分担。さらに、近くの山の中には三種の神器を納める賢所の建設も決定していた。
賢所の工事は終戦でほとんど手つかずのまま終わったが、少なくとも政府中枢が皇室や軍部を含めてまるごと移転する、まるで首都移転さながらの大規模事業だったのである。
しかし、結局終戦によって本土決戦は回避され、松代大本営が使用されることもなかった。ただ間違いなく、日本の歴史に刻まれた一幕なのだ。
ところで、すんでのところで“シン・帝都”にならずに済んだ松代大本営と松代の町。いったいどんなところなのだろうか。






