近年の中路啓太は、日本国憲法の成立までを描く『ゴー・ホーム・クイックリー』、岸信介の生涯を追った『ミネルヴァとマルス 昭和の妖怪・岸信介』、昭和天皇を題材にした短編集『昭和天皇の声』、日本統治下のパラオから始まる『南洋のエレアル』など、近現代史に着目した歴史小説が多くなっていた。昨年、『新皇将門』で古代史に挑戦した著者の新作は、久々の戦国もので有名な長篠の戦いを取り上げている。
織田信長・徳川家康の連合軍と戦国最強と謳われた武田勝頼の軍勢が激突した長篠の戦いは、鉄砲三千挺を三隊三列に分け、最初に撃ち終わった一列目が後方に下がり、二列目、三列目が前に出て撃つ間に一列目が弾込めを終えて次弾を発射することで鉄砲の連射を可能にする新戦術の三段撃ちを考案した信長が、武田騎馬隊を殲滅したとされてきた。
著者はエッセイ風の「序」で、長篠の戦いは、武田軍が攻める長篠城を救うため織田・徳川軍が後詰めに向かったことで始まるが、主戦場は設楽原だったと指摘する。さらに最新の歴史研究を踏まえ、歴戦の将士が揃う武田軍が鉄砲を軽視していたとは思えず、当時の騎馬武者は敵前で馬から降りて戦うのが一般的であり、設楽原古戦場から発掘される鉛弾が三千挺の鉄砲を間断なく撃ったにしては少ないなどの理由から、鉄砲隊が騎馬隊を撃退したとの合戦の構図に疑義を呈している。その上で著者は、設楽原の戦いの疑問点は、馬防柵をめぐらせ大軍で待ち構える織田・徳川軍に、なぜ兵数で劣る勝頼が突撃したかにあるとする。勝頼は愚将とされてきたが、いくら愚かでも味方が馬防柵に阻まれたまま次々と討たれれば撤退を命じるはずだ、という著者の見解には説得力がある。
この疑問を解明するため、著者は武田信玄の西上から物語を始めている。本書は歴史小説だが、随所に「序」と同じく史料を踏まえて歴史を評価、解説する史伝風のパートが挿入されている。歴史の実像に迫る史伝は淡々と進む作品もあるが、著者は小説の理解を深める補助線として史伝を使っており、物語を盛り上げリアリティと奥行きを与えることにも成功している。そのため歴史小説好きも、戦国史のファンも満足できるのではないか。
三方原で家康を一蹴した信玄だが、体調の悪化で亡くなった。武田家は嫡男の義信が継ぐ予定だったが謀叛の疑いで廃嫡されており、母の実家で昔は武田家と敵対していた諏訪家を継ぐはずだった勝頼が信玄の後継者になる。義信の下で次期政権を担うために集められた家臣団や信玄と戦場を駆け回った宿老の中には、勝頼に複雑な感情を抱く者も少なくなかった。新しい主君の元で新体制を作りたい勝頼の側近と、新体制ができると蔑ろにされるのではないかと考え、三年間は喪を伏せ外征を控えよとの信玄の遺言を遵守しようとする宿老の対立は、現代日本の多くの組織で起きている世代間ギャップに近い。保守的な宿老と改革を急ぐ若手側近に挟まれた中間管理職のような勝頼が、両方の顔を立てつつ独自の政権運営を模索する展開には、特にミドル世代より上の読者は共感が大きいだろう。
