武田家を継いだ勝頼は、視覚に障害があるため浄土真宗の寺で出家した異母兄の龍芳を訪ね語らうようになる。龍芳は「現し世」は「木霊」のようなもので、こちらが「馬鹿」と言えば「馬鹿」と返ってくると兄弟子から聞いたという。龍芳は、信玄は強すぎたが故に領土を拡大できたが、その反作用として家中に不和を招き嫡男を死に追いやり結果的に武田家を弱めたのではないかと考えていた。この「木霊」と勝頼がどのように向き合い、武田家の舵をどのように取るのかが中盤以降の重要な鍵となっていく。

 勝頼は龍芳の身のまわりの世話をしていた幾を、強引に屋敷へ引き取る。勝頼が幾との仲を深めていくのかも物語に緊迫感を与えており、謀略と合戦が連続する中に置かれた叙情的なエピソードは一服の清涼剤となっている。しかし甘いだけではなく、侍女が働いてくれるのですることがなく、自由が制限されて閉塞感を強くする幾の姿は、男性優位が続き何かあると女性の行動を制限しがちな現代日本への批判のように思えてならない。

 信玄の死は秘されたが、周辺国の諜報活動で実質的に露見していた。武田家の混乱を知った家康は、国境地帯の武田の城を落としていく。勝頼も外征を禁じる父の遺言に縛られながらも、家康に奪われた要衝の高天神城を短期間で奪取し名声を高める。だが強い力で家を弱体化させた信玄のように、勝頼も名将との称賛により窮地に立たされてしまう。

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 力には力で対抗するしかないと考える勝頼は、時間が経てば経つほど信長、家康との力の差が開くと判断し設楽原で乾坤一擲の勝負に出る。力を求め、その「木霊」が返した力に滅ぼされた勝頼は、周辺国への憎しみと力での対抗が支持を広めている現代の日本を生きる読者に、安定と平和をもたらすために何か必要かを問い掛けているのである。

なかじ・けいた/1968年東京都生まれ。2010年『己惚れの砦』で吉川英治文学新人賞候補、15年『もののふ莫迦』で本屋が選ぶ時代小説大賞受賞、16年『ロンドン狂瀾』で山田風太郎賞候補に。近著に『南洋のエレアル』『新皇将門』など。

すえくに・よしみ/1968(昭和43)年、広島県生れ。明治大学卒、専修大学大学院博士後期課程単位取得中退。時代小説、ミステリーを中心に、幅広く文芸評論を執筆。全集やアンソロジーの編著も数多く手がける。日本推理作家協会会員。

木霊の声 武田勝頼の設楽原

中路 啓太

文藝春秋

2025年7月24日 発売

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