「祖母の遺体がどれだか分かりませんでした」

 昌福寺は空襲で全焼したため当初は埋葬地の候補から外れていた。が、切羽詰まった職員らは、焼け出されて避難していた住職に相談した。すると、「どこでもいいから、空いているところへ埋葬して下さい」と無料で引き受けてくれた。遺骨は炭俵で34俵分もあったという。「果たして何体分のお骨だったか分かっていません」と市仏教会の代表者は言う。

 墓標は当初、杉の角材でしか建てられなかった。石で作り直したのは敗戦から2年後だ。苦しい生活の中から市民が寄附を出し合い、どうしても足りなかった2割分は市が負担した。

昌福寺。身元不明者の墓標に手を合わせる ©︎葉上太郎

 この日の法要には、やはり遺族や磯田市長、市民ら約100人が訪れた。

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 参列した60代の女性は「父方の祖母が平潟神社の防空壕で亡くなったそうです。でも、祖母の遺体がどれだか分かりませんでした。おそらくここに埋葬されたのだと思います」と話す。平潟神社の慰霊祭と昌福寺の法要には毎年来ているのだという。

丸一日かけて行われる慰霊の行事

 祈りの催しは、この後もさらに続く。

 1時間後の午前8時、「平和の森公園」で新潟県教職員組合長岡支部などが「平和祈願祭~空襲で亡くなった子どもたち・教職員と市民を追悼する集い~」を開催した。

午前8時、平和像に子供達が献花する(平和の森公園) ©︎葉上太郎

 この公園には「平和像」がある。女性とボールを持った女の子、そして本を読む男の子の3体のブロンズ像だ。長岡空襲では280人余の学童が犠牲になり、平和像は県教職員組合が寄附を集めて建てた。アメリカから寄附した県出身者もいた。当初は長岡駅前に設置されたが、2カ所の公園を移転した末の1996年、「平和の森公園」が安住の地となった。戦後50年を機に、市民有志の運動でできた公園だ。

折り鶴と花に囲まれた平和像(平和の森公園) ©︎葉上太郎

 午前9時には長岡市の「平和祈念式典」が開催された。献花に続き、空襲体験者が生々しい記憶を語る。

 午前10時15分には「ながおか平和フォーラム」。長岡商工会議所女性会など9団体で構成する実行委員会が催した。

長岡市の平和祈念式典には多くの人が訪れた(アオーレ長岡) ©︎葉上太郎

 午後6時半からは市中心部を流れる柿川で灯籠流しが行われた。柿川は炎に追われた市民が多く亡くなった場所だ。

 この日から3日間の日程で開催された「長岡まつり」は「戦災復興祭」として始まった。初日の8月1日は通行止めにした中心街を埋め尽くして踊る「大民謡流し」や、神輿の練り歩きがあった。

大民謡流し(長岡まつり) ©︎葉上太郎
神輿の練り歩き(長岡まつり) ©︎葉上太郎

 そして午後10時半、まさに空襲が始まった時刻に3発の花火「白菊」が打ち上げられた。

 この花火は、シベリアに抑留経験のある花火師(故人)が、異国で亡くなった戦友に手向けようと、旧ソ連のハバロフスクで打ち上げたのが最初だ。長岡では2003年から毎年8月1日の空襲開始時刻に3発が夜空を白く彩っている。市民はこれに合わせて亡くなった人へ思いを馳せ、平和への願いを込める。

あれから80年後の2025年8月1日午後10時半に打ち上げられた花火「白菊」(長岡市撮影)

 こうして催しの概略を記すだけでも膨大な行数になってしまう長岡の8月1日。

 なぜ、人々はそうまでするのか。あまりにもむごく、恐ろしい出来事だったからに違いない。二度と体験したくない、させたくないという思いを伝える知恵でもあるのだろう。法要の参加者の中には「まつりまであるから、長岡ではよそより戦争の史実が伝わりやすい」と話す人もいた。

 ただ、当事者には口に出せないほど悲惨な体験だった。