防空壕を飛び出すと、あたりは火の海になっていた

 この日、慰霊祭や法要、市の式典に出ていた羽賀勝一さん(82)には「話せない」という気持ちがよく分かる。母親がそうだったからだ。

羽賀勝一さんも平潟神社、昌福寺、平和像、平和祈念式典と祈りの巡回をした(平和の森公園) ©︎葉上太郎

 羽賀さんが空襲に遭ったのは3歳になる前だった。当時の記憶はない。母親が少しずつ話した内容や親類の言葉を総合すると次のようだった。

 空襲の夜、31歳だった父親は夜勤で工場にいた。自宅には羽賀さんのほか、27歳の母親、4歳の姉、そして50代半ばの祖父の4人がいた。

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 警報が出ると、警防団に入っていた祖父は避難誘導に出動した。残された母親は姉の手を引き、羽賀さんを背中におんぶして防空壕へ逃げた。

 空襲が激しくなった時、姉と羽賀さんの名前を呼ぶ父親の声が聞こえたのだという。

 母親は防空壕を飛び出した。が、父親に会えなかったどころか、辺りは火の海になっていて防空壕に戻ることさえできなかった。逃げまどい、大河の信濃川の方なら助かるかもしれないと、3人で土手を目指した。

空襲後の長岡市街地(長岡戦災資料館の展示)

 なんとか助かったものの、父親は家の前で亡くなっていた。祖父が見つけた。

「遺体を荼毘に付そうにも板切れがなくて苦労した」と祖父は話していた。

再婚した母親の遺品には…

 27歳という若さで未亡人になった母親は、再婚した。幼子を2人抱え、生活のためもあったろう。

 そのうち、弟と妹が生まれた。

 あの夜の悲惨さに加え、その後の家庭環境が複雑になったことから、「お袋は戦争のことをあまりしゃべりたがらなかった」と羽賀さんは言う。

母子像『懐(おも)い』(堀田正作)。市民の募金活動で制作された(長岡戦災資料館)

 母親が亡くなった後、遺品を整理していたら父親の写真が2~3枚出てきた。

 羽賀さんにとっては、記憶にさえあまりなかった「父の顔」だった。

「当時は防空訓練などがあったので、大事な物をいつでも持ち出せるようにまとめておいたのでしょうね。その中に家族の写真も入れておいたのだと思います」と羽賀さんはしみじみ語る。

 羽賀さんは現在、市が開設している「長岡戦災資料館」で語り部のボランティアをしている。「お手伝いできることがあればと、家族の体験を話しています。もっと母に聞いておけばよかったなと思うこともありますが、母の気持ちを考えると……」と目を伏せる。

 羽賀さんだけではない。この日に開かれた「ながおか平和フォーラム」で空襲体験者の手記を朗読した長岡出身の俳優、星野知子さんも母親からあまり聞けなかった一人だ。