8月1日午後10時半。80年前の新潟県長岡市で市街地の8割が焦土になった長岡空襲の開始時刻だ。市内への爆撃では分かっているだけでも1489人が犠牲になった。

 同市を貫く信濃川では毎年、この時刻に合わせて「白菊」と名づけられた花火が打ち上げられる。空襲の犠牲者を追悼し、平和を祈るためである。続く8月2日と3日の夜には全国的に有名になった花火大会が催され、観覧席だけでも1日当たり約17万人が訪れる。ところが、こうした花火を「見たくない」「見られない」という高齡者がいる。夜空を彩る火や音が、あの夜の恐怖を思い出させるというのだ。それほどの体験とは——。

あれから80年後の2025年8月1日午後10時半に打ち上げられた花火「白菊」(長岡市撮影)

「花火は見ません」93歳空襲被災者の壮絶な証言

 毎年8月1~3日に催される「長岡まつり」のクライマックスは2日と3日の夜に行われる花火だ。総計100万人が訪れると言われるほどの賑わいになる。その魅力について、今年8月1日の「ながおか平和フォーラム」(長岡市や長岡商工会議所女性会などで作る実行委員会が開催)で講演した同市出身の俳優、星野知子さんは次のように述べていた。

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「私はいろんな花火大会を見ています。どんな花火もきれいだし、感動するのですが、長岡花火のように切ない気持ちにはなりません。よそから来た人にも『見ていると涙が出ました』『花火を見上げながら自然に平和を祈っていました』と言ってもらえる。長岡花火が広く、深く人の心を揺れ動かしているのです。下を向いて目を閉じて祈るのとは違い、上を向いて願うのはとっても力強いし希望が持てます」

「ながおか平和フォーラム」に登壇した俳優の星野知子さん(長岡市撮影)

 一方、あの夜を体験した中には、今でも花火を見上げられない人がいる。

 長岡市に住む平澤甚九郎さん(93)はそのうちの一人だ。

「空襲のことは、やっぱり忘れられません。はっきり申し上げて、花火は見ません。うちにおります」と話していた。

平和祈念式典で体験を話す平澤甚九郎さん(アオーレ長岡) ©︎葉上太郎

 平澤さんは8月1日、星野さんが講演する前に開かれた長岡市の「平和祈念式典」で体験を語った。この証言に当時の出来事を補足しながら、長岡空襲を浮かび上がらせたい。

「日本が負けるとは夢にも考えていませんでした」

 平澤さんが長岡空襲に遭ったのは13歳の時だ。旧制長岡中学(現在の新潟県立長岡高校)の2年生だった。

 自宅は隣の旧与板町(平成大合併で長岡市に編入)にあり、通学のために長岡市中心部で下宿生活をしていた。

校区ごとの焼失地図はボランティアや多くの市民の協力で完成した(長岡戦災資料館の展示)

 戦況は次第に敗色が濃くなっていた。それでも平澤さんは「日本が負けるとは夢にも考えていませんでした」と語る。「大本営発表の情報しかなく、『撃ちてし止まん』の気概にあふれ、神の国日本の勝利を確信する軍国少年」だったからだ。

 長岡の大先輩、山本五十六元帥に続けとばかりに、海軍予科兵学校を目指したが、「一日も早くお国の役に立ちたい」と、より年少で受験できる陸軍幼年学校へ進路を変えたほどだった。

山本五十六は長岡出身。記念館がある ©︎葉上太郎

 旧制中学は5年制だ。当時の旧制長岡中は4~5年生が名古屋の軍需工場へ勤労動員、3年生は市内の工場に徴用されていたので、在校していた最高学年の平澤さんら2年生が奉安殿や校舎を守る役割を担った。奉安殿には天皇・皇后の写真(御真影)が収められ、命懸けで守らなければならないとされていた。

 そうした長岡でも次第に空襲が身近に感じられるようになっていた。