平澤さんの生死を分けた2つの決断
まず、下宿の裏にあった防空壕に入らなかった。「演習の時にも避難しましたが、爆風は防ぐことができても、火から身を守るには無理な構造物」と考えていたからだ。
そして、自宅がある与板町へは帰ろうとせず、逆方向の山の方へ向かった。与板町へ逃げるには、市内でも最多の297人が亡くなった平潟神社の辺りを通過することになる。さらに信濃川に架かる長生橋を渡らなければならない。この橋のたもとでは多くの人が亡くなった。
山の方へ逃げた平澤さんは、長岡駅近くの踏み切りを渡った。機関庫から避難する機関車が激しく警笛を鳴らして走り出していた。線路を越えると、行く手を遮るようにして焼夷弾が降り注ぐ。明るくて真昼のようだった。
足がすくんだ平澤さんは、青田に転げ落ちるようにして下り、稲の間に身を伏せた。
灼熱の中を逃げてきたので、稲におりた夜露が心地よかった。空にはB29爆撃機の機影が見えた。
辺りを見回すと、白い下着姿の女性が同じようにして身を伏せていた。
「平澤」。そう呼ばれて見上げると、隣のクラスの生徒がいた。「行き先はあるのか。なければ俺に着いて来い」と言われて、共に行動した。山沿いの暗い道を歩き続け、下宿から直線で5km弱先にある小高い丘の寺にたどりついた。
平澤さんは午前2時頃だったと記憶している。寺の庭に出ると、長岡の市街が天を焦がす炎に包まれていた。その真ん中に「水道タンク」がくっきり浮かび上がって見えた。高さ41.5m。1927(昭和2)年に完成した水道配水塔だ。長岡空襲ではこの塔を目印に逃げた人もいて、市民には特別な存在となっている。1998年、国の登録有形文化財になった。
爆撃機の音が聞こえなくなったのは午前0時10分すぎだったとされる。
わずか1時間40分ほどの爆撃で、長岡の街は8割が焼失した。
下宿は跡形もなく燃えていた
朝、平澤さんは寺で食事をさせてもらい、下駄までもらって市街地へ向かった。下宿は跡形もなく燃えていた。おばさんが「生きていたかね」と泣きながら抱きついてきた。平澤さんの姿が見えないので、「自宅のある与板町へ帰ろうとして、長生橋の方で死んだのではないか。遺体を探そう」と、自宅から探しに来た人と話していたところだった。
下宿のおばさんと無事を確かめ合った平澤さんは、与板町の自宅へ帰って行った。
市街地の惨状は、当時の長岡警察署の警部が記した「戦災メモ」に生々しい。紹介しておきたい。
「私は、二日の朝早々に市内をひとめぐりして平潟神社の境内に足をとめた。言いようのない臭気が鼻をつく。死屍累々とはこのことだろうと思った。死体は衣服が焼け、半裸か一糸纏わないものが多かった。母親が子どもの顔を抱きしめているもの、母子がお互いに離れまいとして、手と手を握りしめているものなどで、婦女子なだけにひとしお哀れであった。思わず合掌せずにはいられなかった。亡くなられた方が一番多かったのは平潟神社と柳原の神明さまの境内、そこに掘られた防空壕。それに、その近くを流れる柿川のなかであった。平潟神社と神明さまは、計画による避難場所であった」
「柳原の神明さま」とは、柳原町の神明神社のことだ。ここにも平潟神社と同じく防空壕が掘られていた。二つの壕があったが、一つは隣を流れる柿川からだろうか、地下水が染みだして膝までたまり、役に立たないとされていた。これが運命を分ける。人々が生き延びたのは、「役に立たない」とされた方だった。水があったので、灼熱地獄の中でもかろうじて命を落とさずに済んだ。







