「胸から上だけの遺体が…」長岡に落とされた“模擬原爆”の被害

 東京大空襲(1945年3月10日)以降は疎開して来る人が増えた。灯火管制が行われ、防空訓練も実施された。空襲の警戒警報がしばしば出るようになる。建物疎開として住宅が壊されるなどした。

 7月20日午前8時13分、市街地の少し南に大型爆弾が落ち、男性2人女性2人の計4人が亡くなった。ジャガイモ畑で収穫していた兄弟は、兄が胸から上だけ発見されて、弟は遺体らしいものさえ見つからなかった。赤ん坊を背負った女性は頭部がなくなり、赤ちゃんが真っ赤な血に染まって泣いていた。全壊した家の中では、女性の額を爆弾の破片が貫いていた。

模擬原爆が投下された地点 ©︎葉上太郎

 跡地には直径約18m、深さ約5mもの穴が空いた。

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 この爆弾は戦後の研究で、全国に49発投下された模擬原爆の一つだったと分かった。広島や長崎で炸裂させる前、投下訓練を行ったのである。

 さらに、米軍機からは「伝単」と呼ばれるビラもまかれた。「日本國民に告ぐ」というタイトルで、長岡などへの空襲が予告されていた。拾ったらすぐに警察などに届けなければならなかった。

「日本國民に告ぐ」と題された伝単。1945年7月27日にまかれ、「長岡」の地名が入っている(長岡戦災資料館の展示)

空襲警報のサイレンで飛び起きた夜

 そして8月1日午後10時半を迎える。

 北マリアナ諸島のテニアン島を飛び立った米軍B29爆撃機は、先導隊の12機が3群に分かれて長岡市の南部、中心部、北部に焼夷弾を投下した。これを目印に15分遅れで飛来した113機が、焼夷弾による無差別爆撃を行った。この夜は長岡に加えて、茨城県水戸市、富山県富山市、東京都八王子市も空爆され、ニューヨーク・タイムズが「世界史上最大の空襲」という見出しで報じたほどだった。

米軍の長岡空襲作戦計画図。明治公園を中心に半径1.2kmを爆撃目標 にしている(長岡戦災資料館の展示)

 平澤さんはそのような惨事が迫っていようとは思いもせず、「床につき、まどろみかけた頃、不気味で聞き慣れたサイレンの音で目が覚めました。空襲警報だと飛び起きました」と話す。

 防空頭巾と救急袋を持って下宿の2階から駆け下りると、「ザー」という響きと、「ドーン」という激しい音がした。

 大量の焼夷弾が降り注ぐ時のザーという音については、他の空襲があった都市でも多くの人が聞いている。

「焼夷弾子弾(不発弾)」。焼夷弾は投下後、多くの子弾に分れて地上を襲う(長岡戦災資料館の展示)

 平澤さんは驚いて押し入れに飛び込み、布団を被った。

 下宿のおばさんが「平澤さーん」と叫ぶ。空が赤く染まっていた。表通りは既に燃え上がっていて、山の方へ避難する人でいっぱいだった。

 もし、行動が遅れていたら大変なことになっていただろう。下宿は市中心部を流れる柿川のほとりにあった。この川では多くの犠牲者が出て、毎年8月1日の夜には灯籠流しが行われる。下宿はその灯籠を流す場所の近くだった。

柿川の灯籠流し。平和へのメッセージが書かれていた ©︎葉上太郎

 平澤さんは急いで防空頭巾を被り、救急袋を肩に掛けた。慌てていたからだろう、左右が違う下駄を履いて外に飛び出した。

 ここで平澤さんは、後に「生死を分けた」としみじみ思い出すことになる二つの決断をした。