「石のようなものがピューッと耳の付近を…」

 平澤さんの話に戻る。

 旧制長岡中学の校舎は、前庭に植えられていた樹木が火を防いだのか、焼失を免れた。平澤さんは自宅から自転車で通学した。

 8月7~8日頃と記憶している。午前7時ごろに家を出て、長岡市街へ向かう途中、突然背後から轟音が迫った。石のようなものがピューッと耳の付近をかすめる。見上げると、頭上に黒い大きな物体があった。それが飛行機だと気付いた平澤さんは真っ青になった。米軍機の機銃掃射だった。

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平和祈念式典で恐怖の空襲について話す平澤甚九郎さん(アオーレ長岡) ©︎葉上太郎

 必死で自転車を走らせ、杉林に飛び込む。草むらに伏せて飛行機が飛び去るのを待った。「一瞬の出来事でしたが、長い時間のように感じられました」と話す。

 間もなく終戦になった。

 同学年の学友はあの夜、4人が犠牲になった。

「燃える炎に身を焼かれ、どんなに熱かっただろう、苦しかっただろうと思うと胸が痛み、昨日までの元気な顔がまぶたに浮かんでしばらく気が抜けたような時間もありました」

戦後80年経っても消えない“空襲の恐怖”

 平和式典の講演では「長岡まつり」のメーンイベントとなる「大花火大会」(毎年8月2日と3日の夜)についても触れた。

「90歳を過ぎた今も、空を彩って打ち上げられる大輪の花火の閃光や響く轟音が、空襲の夜の恐怖と重なり、当時を思い出して暗い気持ちになるのは私だけではないようであります」

長岡と言えば花火。道路施設にもデザインされている ©︎葉上太郎

 この日、地元紙の新潟日報が随筆家の半藤末利子さん(90)について、コラム「日報抄」で紹介した。

 末利子さんは長岡出身の作家、松岡譲の娘だ。戦時中は長岡に疎開していたので、あの夜の空襲を目撃した。夫の作家、一利さん(故人)も長岡に疎開していて、旧制長岡中学の生徒だった。平澤さんとは共に同年代の同窓生だ。

半藤一利さん ©文藝春秋

「米軍機が爆弾を落とすたびにごう音と火柱が上がる。隣にいた母の袖を握りしめ、歯の根が合わずにガタガタと震えていた」「その少女が今、90歳になった。4年前に亡くなった作家半藤一利さんの妻で、随筆家の末利子さんである。長岡高校を卒業後ずっと東京で暮らすが『あの夜だけは忘れられない』という。花火大会は空襲を想起させるので楽しめなくなった」と「日報抄」は書いた。

 式典の講演を終えて記者に囲まれた平澤さんは、日報抄の記事を紹介しながら、「やっぱり末利子さんも同じだったんだなと思いました。私も花火は見ません」と言った。

講演の後、記者に囲まれ、「戦争はあってはならない」と語る平澤甚九郎さん(アオーレ長岡) ©︎葉上太郎

 80年もの年月が経った。それでも恐怖は消えることがない。

 若い記者に囲まれた平澤さんは「あの頃、人命は虫けらのようでした。戦争のない世の中になってほしいですね。戦争はあってはならない。人命の尊さを訴えたい」と繰り返し述べた。

次の記事に続く 「他人を犠牲にして、なんで私は生き残ってしまったのか」火の海をのがれて“井戸”に飛び込み…87歳女性がずっと口外できなかった“空襲の夜”の壮絶体験

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。