1945年8月1日の深夜、米軍B29爆撃機が約925トン・計約16万3500本もの焼夷弾を投下して、新潟県長岡市の市街地の8割を焼き払った。長岡空襲だ。これら市内への米軍爆撃による犠牲者数はこれまで1488人とされていたが、今年新たに1人が判明して1489人になった。長岡戦災資料館が保管する空襲犠牲者の遺影も、この犠牲者のほかに2人分が追加されて379人に増えた。今なお事実の発見や資料の追加が続く戦争。「もう80年も前のことだから」と突き放してしまうのか、それとも「たった80年前のことだから」と身近な問題として考えるのか。捉え方によって、戦争の存在感は大きく違う。
「自分で調べるしかない」市職員が“被害実態の解明”に捧げた執念
長岡市が開設した長岡戦災資料館は、1945年7月20日の模擬原爆投下と8月1日の長岡空襲の犠牲者を「長岡空襲戦災殉難者」として名簿に記載している。今年新たに追加されたのは荒海修資さん(当時31)だ。出征して負傷したらしく、長岡赤十字病院に入院中に空襲で亡くなったという。
昨年、遺族が戦災資料館を訪れた時、犠牲者名簿に荒海さんが含まれていなかったことが分かり、改めて市が調査したうえで加えられた。
「1489人」という数字は、苦労の末に積み上げられた犠牲者数だ。他都市では明確な犠牲者数さえ分かっていない空襲もある。
長岡市も戦後長らくは「1143人」としていた。
これに疑問を抱いたのは空襲時からの市職員で助役(現在の副市長)まで務めた笠輪勝太郎さん(故人)だ。空襲犠牲者の名簿作成などに心血を注いだが、その経緯を『長岡郷土史第12号』(1974年3月、長岡郷土史研究会発行)に寄稿している。
1143人という数字は戦後間もなくの1945年に市が発表した犠牲者数だ。笠輪さんは戦災資料を集めていて、犠牲者数の根拠となった名簿もそのうちに出てくるだろうと考えていた。だが、資料収集が終盤に近づいた1973年になっても見当たらなかった。
現在は「長岡まつり」(毎年8月1日~3日)となっている長岡復興祭(敗戦翌年に開始)で慰霊するために名簿を貸したのではないかと言われて調べると、遺族の名前と各戸の死者数しか記されていなかった。市内最多の297人が亡くなった平潟神社の境内(現在は平潟公園)に設けられた戦災殉難者慰霊塔に収められたのではと聞いて調査すると、確かに名簿は出てきたものの900人余しか載っておらず、しかも法名が主体だった。
このため「長岡市として世間に発表するに足る名簿はどこにもない」と結論づけた。
市役所で戦後、犠牲者数の調査に関係した人に尋ねると、あまりはっきりしたことは言わなかったが、米軍占領下だった1945年末、当時の町内会長からそれぞれ死者数を報告してもらい、集計した数字だったのではないかという話になった。
笠輪さんは自分で調べるしかないと考えた。
空襲時の市役所は燃えたので、戸籍簿は焼失していた。法務局に納めた「戸籍の届出書」が残っていて、そこから戦死者を拾い出していった。膨大な作業の結果、長岡市に本籍がある人だけでも戦後12年間に届出があった空襲犠牲者は1233人だったと判明した。





