「俺はもうだめらっけ、おまえたち2人で逃げれ」
平潟神社では防空壕に入らなかった。後ろから押されて背中の美智子さんが泣き、「この中へ入ったら潰される」と考えたのだ。しかし、周囲は火の海だった。既に倒れている人もいた。
おじいさんは「俺はもうだめらっけ、おまえたち2人で逃げれ、俺置いて逃げれ、逃げれ」と言ったが、七里さんは「何言ってがんの、おじいさん、死ぬときは3人一緒に死のういね」と、おじいさんを引きずるようにして走った。
川の中に顔を突っ込んで生き延びた
神明神社の境内に着いた。ここもまた死者が多かった場所だ。「周りじゅうみんな家が燃えて、空が見えないぐらいの火」だった。誰かが「川、川」と言い、そこにいた人々は市中心部を流れる柿川へ入った。川の水は少なかったようだ。
焼夷弾には日本の木造家屋を焼き払うためにゼリー状の燃料が詰められていた。このため柿川の表面には火が走った。七里さんの防空頭巾は既に燃えてしまっていたが、まだ被っている人もいた。火がつくたびに川の水を掛け合っていたが、追いつかない。「皆さんがザブン、ザブンとそのまんま川の中へ顔を突っ込んで火を避けるというような状態でした」。
気づいたら、背中の美智子さんの声がしなかった。名前を叫びながら体を揺さぶっても意識がない。七里さんは自分の服を裂いた。そして乳を飲ませようすると、少し吸いついたように見えたが、それが最期だった。
我に返ると、爆撃機の音がしなくっていた。3歳ぐらいの子が流されていく。七里さんは助けようとしたが無理だった。
夜が明け、「燃えていた木を引っこ抜いてきて」、美智子さんを荼毘に付した。簡単ではなかった。「腸がグジグジして、燃やすもんはなかったので、最後にお墓のそばに穴を掘って、それを埋めました」と話す。かわいい我が子に、そのようなことまでしなければならなかった若い母親の気持ちはいかばかりだったろう。
それでも七里さんは「自分の子を自分の手で葬ることができた」と話す。
「大勢の人はもう本当に男か女か、燃えた木か分からないような、すさまじい格好で大勢境内のところでいっぱい死んでいました。暑い夏だから死臭がだんだんしてくるんですね。指揮を執るはずの鶴田(義隆)市長さんも亡くなられたし、もう何日もほったらかしみたいになって、すごいにおいがしてきたんですね。3日ぐらいしてからかな、何か市の職員の人がトラックを持ってきて、そして積んでいって、何か石油をかけて燃やしてみんな骨にしたんです」と証言した。
阿鼻叫喚の巷とは、このことを言うのだろう。





