新たに判明した空襲後の混乱を示す「事実」

 他にも疎開などで長岡に寄留していて犠牲になった人がいる。前出の戦災殉難者慰霊塔や長岡まつりの名簿、さらに280人余が犠牲になった学童を慰霊するために建立された平和像にも不十分ではあるが名簿があった。これらを照合していった。

 そうした結果、空襲後の混乱を如実に示す「事実」が分かっていった。一家が全滅した場合などには、兄弟や親類が別々に届け、30人に重複した死亡届が出ていた。一度は親類が記憶で届けたために年齢が10歳以上違い、後に修正された人もいた。同じ人が住所も年齢も違って届けられていた例もあった。亡くなった学童を捜し当てると、母親や入学前の子まで犠牲になっていた。

 こうした地道な作業を積み重ねた結果、長岡市が1987年に発行した『長岡の空襲』には1461人の犠牲者名を掲載した。戦後の発表より318人も増えた。

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長岡空襲戦災殉難者名簿は学区ごとに記載されている(長岡戦災資料館で保管)

 その後も長岡戦災資料館を訪問した遺族などから申し出があり、27人を追加した。今回の荒海さんで28人目だが、「他にもまだおられるのではないかと指摘する人もいます」と近藤信行館長は語る。

看護師だった戦災者が語る“あの夜のこと”

 語り部として活動している星野榮子さん(87)は「あの夜の証言など自分には到底できない」と考えていた時、先輩の語り部の金子登美さん(故人)に「あなたが話さなければ、そこで起きたことも、死んだ人がいることも、誰にも分からない。何もなかったことになりますよ」と諭されたことがある。犠牲者名簿への記載もこれと似ている。まさにその人が生きていた証であり、空襲で何があったかを物語ることにもつながる。

神明神社の境内で亡くなった人の慰霊碑。50回忌に長岡市と市教委が建てた ©︎葉上太郎

 しかし、荒海さんがどのようにして犠牲になったかは具体的にわかっていない。ただ、同じ現場にいた人の証言は長岡戦災資料館に映像などとして残されている。荒海さんのことを知るためにも記しておきたい。

 長岡赤十字病院の看護師だった香田光さんの話である。

 この病院のルーツは戊辰戦争に関係している。長岡の街は空襲だけでなく、戊辰戦争でも焼け野原になった。当時の長岡藩の窮状を知った支藩の三根山藩(現在の新潟市西蒲区峰岡)は救援のために「米百俵」を贈った。長岡藩は食べ物にも事欠く状態であったにもかかわらず、米百俵を売って「国漢学校」の建設費に充てた。ここから復興に寄与する幾多の人材が輩出されるのだが、同学校の医学局が発展して「長岡病院」になり、これを継承したのが長岡赤十字病院だった。

空襲時に長岡赤十字病院があった場所はスーパーになっている ©︎葉上太郎

 だが、戦争末期の1945年4月に「舞鶴海軍病院長岡赤十字病院」と改称され、舞鶴海軍病院の分院になった。

 香田さんは新人看護師で、約40人の負傷兵が入院する外科病棟の担当だった。