「少年兵のかわいらしい顔がハエまみれに…」
あの夜の8月1日午後9時すぎ、警戒警報のサイレンが鳴った。病棟に退避指示が出て、患者を地下室に移した。「B29爆撃機の音がいつもと違う」というので数人で屋上に出ると、ガリガリ、バリバリという音がして、火柱が見えた。「あっという間に頭上にも飛行機が何機も迫って来て、急に激しい夕立のような液体が降り、続けざまに筒状のものと火の粉が落ちてきました」(証言より)。焼夷弾だった。
急いで地下室に向かったが、既に病棟の廊下は火事になっていた。
担当の患者を抱えて逃げようにも、炎に包まれた市街地には行けなかった。反対側を流れる信濃川を目指す。その間にも「B29の編隊は急降下しては閃光を浴びせ、焼夷弾を雨あられのように落としました。畑の中に白衣の人が何人か倒れていました」(同)。
信濃川の堤防は避難者でごった返していた。「お母ちゃん」と泣き叫ぶ子や、子の名前を呼ぶ親がいて、香田さんは子供の頃に見た「地獄絵図」を思い出す。
そうした時、入院患者の遺体が運ばれてきた。逃げる途中、田んぼで焼夷弾の直撃を受けた16歳の少年兵だった。香田さんは「退院して帰れる」と喜んでいた姿が目に浮かんだ。
空襲が収まると、信濃川対岸の国民学校(現在の小学校)へ病棟ごと身を寄せた。患者は十分な治療が受けられず、傷口からウジがわいた。「傷がむずむずするから見てほしいと言われ、汚れた包帯を取り除いてみると、膝の下がぐるりと後ろ向きになり、すねかかかとか分からなくなっていて、ただれてウジがうじゃうじゃわいていました」と香田さんは証言する。
亡くなった少年兵は信濃川の土手に寝かせていた。
「かんかん照りの土手の草の上に亡くなった少年兵が、たった一人でぽつんと横たわっていました。かぶされていた毛布をはぐと銀バエがわっとわきあがり、かわいらしい顔の半開きの目や口に銀バエの卵がびっしりとつまっていて、私たちは声も出せず涙をこぼしながら遺体を学校まで運んで帰りました」
生身の人間が極限の状況で亡くなっていく。きれいごとでは済まなかった。
1歳半の娘がいた女性の証言
だが、こうした体験者は戦後80年が経過して少なくなった。私達が「事実」を知るには、長岡戦災資料館に残された映像を見たり、体験記録を読んだりするしかない。故人が語った内容はこれからますます重要になる。
故人の証言という意味で、ぜひ知ってほしいのは七里アイさんだ。
七里さんはあの夜、警戒警報のサイレンが鳴ったので防空壕へ入った。1歳半になる娘の美智子さんを背負い、「おじいさん」の手を引いていた。なかなか警報解除のサイレンが鳴らない。逆に空襲警報に変わった。そのサイレンが鳴り終わらないうちに、ザーッという音とともに、バラバラ、バラバラとトタン板に砂利を引っくり返したような音がした。驚いて外に出ると、自宅の前に「鉄の棒みたいなものが並んで全部火を噴いていました」。焼夷弾だ。もう空が真っ赤になっている地区もあった。
七里さんは大勢の人が逃げるのに従って、平潟神社へ向かう。市内最多の297人が亡くなった場所だ。





