一瞬のうちに市街地の8割が焼失した長岡空襲(新潟県長岡市)。市内への爆撃では分かっているだけで1489人が亡くなった。あれから80年が経過した今も、297人が亡くなった平潟神社や、身元不明者が埋葬された昌福寺では、空襲があった8月1日早朝から慰霊祭や法要が行われている。

 そうした場所で深い祈りを捧げている女性がいた。星野榮子さん(87)だ。炎の海で父と弟を亡くし、その後は一切口を閉ざして生きてきた。80歳を前にして「何があったか話そう」と証言を始めたものの、語るたびに苦しくなる。そして涙が出る。それほどの惨劇だった。

柔和で明るい星野榮子さんだが、取材中は涙が止まらなかった ©︎葉上太郎

ずっと口外できなかった“空襲の夜”のこと

 星野さんは77歳の時に2人暮らしだった夫を亡くした。これがきっかけとなり、「父と弟の遺影を長岡戦災資料館に持っていかなければ」と考えるようになった。

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 戦災資料館は市の施設だ。空襲体験者らのボランティアと協働で運営している。長岡空襲の犠牲者の遺影を集めており、夏が来るたびに一括展示している。

感想を語り合いながら見学していた(長岡戦災資料館)

「それまでも2人の遺影を展示してもらわなければと思いはしていたのですが、どうしてもできなかったのです」

 星野さん自身、空襲を生き延びたことを口外していなかったからだ。意を決して遺影を寄贈すると、ほっとする面もあった。

「ずっと抱えていた重荷を下ろせたように感じました。1枚しかない写真だったのですけれど、父も弟も空襲で亡くなった皆さんと一緒に飾ってもらえて、『ああ、ここに来るべきだったのだな。97歳で亡くなった母が生きていれば喜んだだろうな』と思いました」。星野さん自身、既に79歳になっていた。

空襲で犠牲になった星野榮子さんの父榮作さんと弟紀榮さんの遺影(長岡戦災資料館の展示)

 2人の遺影に加えて、亡母の手記も資料館に託した。31歳で空襲を経験した母親が戦後40年を機に記したものだ。書かれた当時、星野さんが清書させられたのだが、当時のことが思い出されて身震いするような内容だった。

 どのような手記なのか。星野さんの記憶も併せて、あの夜の出来事をたどってみたい。

戦争末期、相次いで爆撃された長岡の街

 星野さんは国民学校(現在の小学校)の2年生で、父母、5歳と2歳の弟という5人家族だった。父親は2年前から神奈川県横浜市の造船所に徴用されていたので、母親が食料品などを売る小さな店を営みながら家を守っていた。

「昭和13年長生橋のたもと。日中戦争に出征する主人のため、赤ちゃんを背負って千人針をお願いしている」とある(長岡戦災資料館の展示)

 戦争末期の1945年4月になると、米軍B29爆撃機が長岡上空に来襲し、警報のサイレンが鳴ることが増えた。

「7月に入ると(爆撃機が)だんだんすごい爆音をたてて通るようになり、もう夜もおちおち寝ていられません」(母親の手記)

この辺りを中心に無差別爆撃が行われた。奥には新たな長岡戦災資料館が建てられる ©︎葉上太郎

 警報が鳴るたびに母親は3人の子を連れて、近所の人と一緒に防空壕へ入った。「あまりに毎日(爆撃機が)通りすぎるので、長岡が新潟より先のはずがない、などと話し合ったりしました」(同)。

 実際には新潟は空襲されず、長岡だけが爆撃されることになる。新潟は原爆の投下対象だったので、焼夷弾で焼き尽くされなかったのだ。

「長岡花火は慰霊の花火」。空襲で焼かれた市街地のシャッター ©︎葉上太郎

 7月20日、長岡の市街地の南に大型爆弾が落とされ、住民4人が犠牲になった。

「急に市内中がざわつきました。子供を疎開させる人もいました。けれども私の家は、長岡以外には一軒も親類などなかったのです」(同)

 そうした時に夫が帰郷した。栄養失調で腸に炎症を起こし、10日間の休みをもらったのだ。10日分の食料を持ち帰ったが、麦さえ一粒も入っておらず、中身はコーリャンと大豆だった。

「それでも私は、百人の味方を得た思いでした」と星野さんの母は記している。

 そしてあの夜、8月1日午後10時半を迎える。