“空襲の夜”に起きたこと
星野さんは日中、母親の実家へ遊びに行った。自宅があった長岡市中心部からだと、信濃川に架けられた長生橋の向こう側にある。
「このため疲れて夜はぐっすり眠っていました。母に叩き起こされ、父に手を引っ張られて防空壕に逃げ込む時、『あっ、枕元に置いてあった鞄を持って来るのを忘れた』と思いました」と星野さんは語る。小学2年生の女の子には鞄が大事だった。
「空襲警報が鳴り、遠くから何やらいつもより恐ろしげな、沢山の爆音が聞こえてきました」「みんなが声も出さずにおりました。ところが5分もたたぬ内に、ぐわっ!と物すごい音がしたと思ったら、防空壕の入口の杭がボーと燃えたのです」(母親の手記)
そこにいた約20人は防空壕の反対側から逃げ出した。そして市中心部を流れる柿川へ飛び込んだ。住んでいた街はぼうぼうと燃えていた。
星野さんが自宅を振り返った時、電柱が燃え上がっていた。「2階に干してあった黄色いワンピースが燃えてしまう。買ってもらったばかりでお気に入りなのに」と悲しくなった。幼くて事態の深刻さを呑み込めていなかったのだろう。
飛び込んだ柿川には無数の火が流れていた。父親が「向こう岸へ上がろう」と言う。「父は私を背負って川を渡りました。その大きな背中を今でも覚えています。これが父との最後の思い出になりました」。星野さんは声を詰まらせる。
一家は炎に包まれた街を逃げまどった。母親の実家へ向かおうとしたが、とても長生橋に近づけるような状態ではなかった。
火の海になった神社の境内
そして避難の人波に押されるようにして平潟神社の境内にたどり着く。市内で最多の297人が亡くなった場所である。その時はまだ「暗くて静か」(母親の手記)だった。
多くの人がいた。防空壕に入りきれず、肩を寄せ合うようにして社殿の周囲に立った。
「だんだん暖かいような風が吹いて来たと思ったら、急に火の粉が吹きつけて来たのです。熱い!熱い!とみんなが神社のまわりを逃げまわりました」(母親の手記)
星野さんは「本当に恐ろしかったのはそれからです。周りから火の粉が降ってきて、どんなに逃げ回ったことか。そのうちに神社の建物から炎が上がり、境内は火の海になりました」と話す。
星野さんの母は「後は書いても話しても本当の様子を皆さんに知って頂くことは、出来ないような気がします」としたうえで、「最後に平潟神社に爆弾を落としたのです。ぐわぁーと火の手が上がり、火風にあおられて境内中が火の粉の嵐となりました。冬の吹雪が全部火の粉だと思えば、まちがいありません」と書いた。





