「他人を犠牲にして、なんで私は生き残ってしまったのか」
星野さんの火傷は治ったが、母親にはケロイドが残った。手記には「真夏の炎天下に半袖のブラウスを着て公園で孫のおもりをしていると、私の右腕の火傷のあとがピリリとし、そしてむずがゆくなるのです。すると、あの時の平潟神社の空襲が昨日のように私の頭いっぱいに広がります」と記している。
母親は遺体が見つからなかった5歳の弟のことが諦められなかったようだ。
「ずいぶん年を取るまで、サーカスが来たら、観客席に弟がいるのではないかと見に行くなどしていました」と星野さんは語る。新聞の尋ね人欄に出したこともある。
星野さんも口に出さないからといって、目を背けていたわけではない。2003年に長岡戦災資料館が開館した後、空襲で焼けた長岡の地図作りに取り組んでいた中学の恩師の講演を聞きに行った。しかし、後ろの席で聞くのが精一杯で、自分が生き残りであることは恩師にも告げられなかった。
転機になったのは、冒頭に記した父親と5歳だった弟の遺影、そして母親の手記の寄贈だ。
長岡戦災資料館に「体験を話してみないか」と打診されて、一度は断った。
その時、同じように空襲を生き延びた金子登美さん(故人、8月1日の「ながおか平和フォーラム」で俳優の星野知子さんが体験談を朗読#1)に諭された。
「お母さんがこんなに一生懸命に書いたのに、あなたが気持ちを継いで語らないでどうするの。あなたが話さなければ、そこで起きたことも、死んだ人がいることも、誰にも分からない。何もなかったことになりますよ」
星野さんは腹をくくった。
そして、自身が空襲に遭ったのと同じ年代の子供達などに体験を伝える活動を始めた。
ただ、おぼろげな記憶を母の手記で明確化され、平常心ではいられなくなった「事実」がある。あの夜、必死で飛び込んだ平潟神社の「井戸」でのことだ。
星野さんの母はこう書いていた。「大変なことを思い出したのです。それは、井戸の中で私達の下になられた人のことです。それは確か女の人一人だったように思われます。本当に申し訳ないことをいたしました。私達のために命を落とされたのです。どこのどなたでしょうか。思い出すたびに心が痛みます」。
「他にも水を掛けてくれた警防団の人も亡くなったと思います。他人を犠牲にして、なんで私は生き残ってしまったのか。そんな私が話をしていいのか」。星野さんは今も自分を責める。
それでも星野さんが語り続ける理由
そうした気持ちに向き合いながら、あの夜のことを話すのは辛い。
星野さんの二女、佐瀬昌子さん(61)は「話すたびに消耗している」と心配する。
それでも語るのを止めないのは、「戦争なんかしちゃだめだ。戦争ほど辛くて悲しいものはない」と話していた母と同じ思いだからだ。おそらく助けてくれた女性もそう考えていたに違いない。
星野さんは朗らかな人だ。しかし、取材を受けている間、ずっと涙が止まらなかった。
それは星野さんだけの涙ではないからだろう。一瞬のうちに命を絶たれた犠牲者、そして苦しみを抱えながら戦後を生きた体験者、星野さんが代弁する多くの人々の涙でもある。
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