忠霊塔のそばで絶命していた父

 星野さんは手や足に火傷を負っていて、母親が病院に連れて行った。だが、けが人が多くて手当てをしてもらえなかった。母親は星野さんと2歳の弟を病院の入口に座らせ、「絶対に動かないように」と言い残して、見失った父親と5歳の弟を探しに戻った。

 父親は平潟神社の境内で焼け残った忠魂碑(現存)のそばで絶命していた。徴用先から死ぬために戻ったようなものだった。「どなたか知らないけど、父ちゃんの顔の上に白い布を掛けてくれていた」と母親が言った。

平潟神社の忠魂碑 ©︎葉上太郎

 5歳の弟はついに見つからなかった。

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 星野さん、母親、2歳の弟の3人は、長生橋の向こうにある母親の実家に身を寄せた。父親の葬儀をしてもらったが、星野さんには変わり果てた死に顔を見せなかったようだ。星野さんはこの時に見た父親の腕時計の記憶しかない。

終戦後、助けてくれた女性のもとを訪ねると…

 その後は長岡の市街から少し離れた病院に入院し、敗戦は院内で迎えた。

 母親は助けてくれた女性を探して尋ねた。

 ガタガタと震えていた時に着せてもらった服を返そうとしたが、「私は1人になってしまったので、もう何も要りません。使ってください」と言われた。

止まった懐中時計(長岡戦災資料館の展示)

 星野さんの母親も過酷な状況に置かれていたが、女性の境遇はさらに厳しかった。

 女性はあの夜、4人の子を連れて平潟神社の防空壕に入った。空襲が激しくなり、壕内が蒸すように熱くなった時、警防団の副団長を務めていた女性の夫が駆けつけ、「ここにいては危ない。みんな早く出るように」と呼び掛けた。

 だが、壕内にはあまりに多くの人がいたので身動きが取れない。女性は「あなた、赤ん坊をお願い」と抱いていた赤ちゃんを夫に託した。なんとか3人の子と外に出たが、「火の粉の嵐」が激しくなって夫を見失った。そのうち気を失いそうになってしまい、気づいた時には1人になっていた。

 夫と赤ちゃんの遺体を見つけたのは先に述べた通りだ。他の3人の子も「手のない子、足のない子、首のとんだ子と見るも無残な有様」で、防空壕を飛び出した後「すぐ爆弾が落ちたのだと思います」と星野さんの母に語った。

「貴女は2人の子供を助けられたのに、私は1人も助けることが出来ず、主人の実家へ行っても他の親戚へ行っても非難されるばかり」「話をしても誰にもわかってもらえない。わかってもらえるのは貴女だけです」。そう話す女性と星野さんの母は泣きながら手を取り合った。

「空襲直後の中心市街地の惨状」のジオラマ(長岡戦災資料館の展示)

 星野さんは戦後、あの夜のことを口に出さなくなった。

 母親も話さなかった。星野さんの前で話す人には、「この子がワーワー泣いて泣き止まないから話さないで」と、制止することさえあった。

 ただ、星野さんは空襲を忘れることはなかった。母親もそうだ。