「トタン板を持ち上げると、友達の遺体があった」
星野さんの母親は14歳で空襲に遭った。星野さんには、ぽつん、ぽつんと話すだけだったが、つなぎ合わせると次のような内容だった。
当時の女学校はもう授業などなく、寄宿舎で暮らしながら軍服を縫っていた。あの夜は警報で外に飛び出し、友達と燃え盛る道を逃げ回った。川岸にたどりついたが、川は火の海になっていた。とっさの判断で橋の欄干に飛び乗り、向こう岸に渡ったので助かった。翌日、生徒は負傷者を運んだが、集合した中に仲が良かった友達が見当たらなかった。道端のトタン板を持ち上げると、その友達の遺体があった。顔では識別できず、穿いていたモンペの柄で分かった。
明るい母親にそのような過去があったと知り、星野さんはショックを受けた。
意識して近所の人を見ると、誰もが家族や親しい人を亡くしていた。たまたま長岡から出掛けていて、戻ったら家族全員が犠牲になっていた男性。赤ちゃんが命を落とした女性。「それぞれの心の中で深い傷を抱えて生きていたのだと思います」と星野さんは語った。
星野さんが朗読した戦災者の手記
星野さんがこの日朗読したのは、そうした中でも勇気を振るって語り部活動をした金子登美さん(故人)が長岡戦災資料館に寄せた手記だ。料理店を営む金子さんのことは、星野さんも子供の頃から知っていたという。
金子さんの文章で星野さんの心に残ったのは「生き残った人々には、それから一生、悲しみがつきまとうようになりました」という一文だ。
辛い思い出など話したくもないだろうに、星野さんは「もう戦争などない平和な世の中になったという確信があったら話す必要はなかった」と金子さんらの心中を察する。それでもあえて話したのは、「今の世の中に危惧を感じているからだと思います」と星野さんは述べた。
金子さんの文章は『語りつぐ長岡空襲——長岡戦災資料館二十周年記念誌——』(長岡市発行)に収録されている。その内容はあまりに壮絶で悲しい。概略を記しておきたい。
国民学校(現在の小学校)の6年生だった金子さんは1945年8月1日の深夜、隣のエミちゃんと一緒に空き地の防空壕へ入った。すると、いつもと違って凄まじい爆発音が続いた。
誰かが「なんまんだぶ」と唱える声に耐えられなくなって、2人は外に飛び出す。赤黒くなった空に巨大な火柱が立っていた。火はみるみる迫る。道は避難する人でいっぱいだった。





