金子さんが目撃した“信じられない光景”

「早くお母さんのところへ行きなさい」と近所のおばさんが叫ぶ。エミちゃんと別れ、父母と姉の3人を探すことはできたが、中学生の兄と「住み込み」の2人の姿はなかった。もはや探している余裕はない。4人で市中心部を流れる柿川へ走った。

 そこでは信じられない光景を目にした。川面が炎を上げて流れていたのだ。

「8月2日、神明神社裏の柿川。逃げ場を失い川に飛び込んだ人は、多くが焼死、窒息死した」などとある(長岡戦災資料館の展示)

 引き返す時、逃げ惑う人々の中で父親と姉を見失った。

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 金子さんは母親と2人で逃げ回る。

 町内は火に包まれ、木がごうごうと燃え上がった。火の粉が吹雪のように吹きつけ、防空頭巾の上に被った布団に火がついた。防火用水に布団を浸して走る。

 そして空き地にゴミを捨てるため掘った穴に倒れ込んだ。既に何人かがしゃがんでいた。

 2人はもう動けなかった。母親は「ここで死のう」と言いながらも、あがいた。穴の横の土を手で掘り、「口を入れろ」と言う。その通りにすると、少し呼吸ができるような気がした。だが、金子さんはだんだん「眠ったように」なっていった。

 気がつくと、穴の外に出た母が、上から引っ張り上げようとしていた。男の人が金子さんの尻を押し上げてくれる。火が収まったわけではなかった。母は燃え盛る空き地の中に、柿川へ続く一本の道を見たのだった。それが「最後の道だ」と信じて、2人は力を振り絞って走った。

空襲後の焼け跡(長岡戦災資料館の展示)

 再びたどり着いた柿川では川面の炎が収まっていた。布団を被ったまま飛び込み、なんとか助かった。

空襲を生き延びた朝に見たもの

 夜が明けると、長岡の街は変わり果てていた。

 黒い焼け野原が広がり、木が黒こげになって立っていた。焼けただれた人が転がり、炭のようになった人が折り重なっていた。犬も死んでいた。母親と娘らしい人は赤ちゃんを間に抱いて死んでいた。

 生きている人は皆、呆然と立ち尽くしていた。

 川の中で手を滑らせて2人の子を流してしまった人。抱いていた子を炎に落としてしまった人。死んだ赤ちゃんをおぶったままの人……。

 防空壕にいた人は蒸し焼きのような状態になり、ほとんど助からなかった。一度は逃げ込んだゴミを捨てるための穴でも人が死んでいた。

「8月3日、ようやく水にありついた市民」などとある(長岡戦災資料館の展示)

 遺体を積み重ねて焼く煙が空を覆う。石垣に寄り掛かって死んだ人の形が、そのまま影のように並んで、いつまでも消えなかった。

 兄と住み込みの2人は逃げ延びていたが、はぐれた父と姉は行方不明になり、ついに見つからなかった。

 金子さんは空襲の話を一切しなかったが、年月が経つうちに考えを変えた。

「驚きと無念のうちに命を落とした人々のことが忘れられるのは、あまりにも哀れでした。いま、私は皆さんにこう語りかけます。『これは一人の女の子が見た戦争です』と。あのときの私はもう79歳。火の中に消えた命がもう一度、人の心の中に生きることを願うのです」

 手記をそう結んだ。

次の記事に続く 「空襲の夜を思い出すので、今でも花火は見られません」一夜で1400人超が死亡…長岡空襲の93歳生存者が語る“80年経っても消えない”恐怖

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。