この状況は田沼政治の転覆を願い画策する人たちにとって、好ましい状況だが、とはいっても家治が健在であるかぎり、田沼政治は続きそうである。しかし、家治にもしものことがあれば……。
家治は意次より18歳も年下だった。家治が若いので年長の意次の地位は、生涯をとおして安泰であるように見えていた。ところが、家治は天明6年(1786)の8月に入ると、突然重い病気にかかり、間もなく数え50歳、満49歳で死去してしまったのである。
そして家治が病床にいるあいだ、意次には老中を辞職するように圧力がかかり、みずから老中辞職を申し出て、8月27日、お役御免が申し渡されることになった。
身体が震え激しく吐血する異常な死
ところで、家治が没した日は、徳川家の公式記録『徳川実記』には9月8日と記されているが、将軍の死はしばらく秘匿されるのが普通だった。たとえば、歴史家の内藤耻叟(ちそう)が明治25年(1892)に初刊した『徳川十五代史』には、「将軍の薨は其実二十日にあり。秘して喪を発せず。故に田沼、稲葉をしりぞけるは公の意に非ず、三家及び諸老のする所なり」と書かれている。
すでに20日に没していたというのだ。また、「田沼、稲葉をしりぞける」とは、家治が死去する直前、意次と御側御用取次(将軍の近侍職)で田沼派の稲葉正明が、将軍が危篤と聞いて駆けつけながら、御三家や御三卿から「御上意」だといわれ、入室を阻まれたことを指す。
つまり、意次らを遠ざけたのは家治の意志でなく、意次らが駆けつけた時点で、家治はもうこの世におらず、御三家や御三卿が、意次を拒むのは家治の思し召しだとウソをつき、意次に無理やり、病気を理由にした辞職願を書かせた――。
意次が老中を罷免になったのは、前述のとおり8月27日で、家治が死去した日については、8月20日のほかに、8月25日など諸説もある。命日が8月25日だと記すのは『天明巷説』という史料で、そこには、家治の体が震えだし、吐血が激しく、異常な死だったという旨も書かれているという。なにしろ、8月1日には、家治は普通に朝会に出座するほど元気だったというのだ。