それから3週間前後で異常な死を遂げるということが、なんの人為もなく起きるのだろうか。

田沼意次による家治毒殺説の真意

秦新二・竹之下誠一著『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院)には、反田沼派の記録『星月夜萬八実録』にある家治死去と田沼失脚の経緯が、おおむね次のように記されている。

家治は天明6年夏ごろから病気になり、手を尽くしても祈祷をしても効き目がなく、8月23日午後、老中たちは十数人の医師を招いた。医師たちが薬の配合を終えてから、若林敬順が再度一味加えたので、納得がいかない医師たちと揉めた。これに対し意次は、若林への苦情ももっともだが、若林も名医の評判があって召し出されたのだから、粗略にあつかうべきではない、と訴えた。ところが、その日の夜12時ごろから家治は容体が急変し、危篤状態になり、世継ぎや御三家、老中や譜代大名などが駆けつけ、大騒ぎになった。

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『星月夜萬八実録』によれば、この話が世間に流布し、意次が推薦した医師が処方した薬を服用して危篤になったので、意次が毒を盛って家治を殺害したのだ、という噂になったという。

しかし、前述したように、意次そして田沼政治の命脈は、まさに家治によってたもたれていた。その家治を殺害する合理的な動機が、意次にはまったく見当たらない。

御三家による“でっちあげ”の可能性

後藤一朗著・大石慎三郎監修『田沼意次 その虚実』(清水書院)には、次のように書かれている。

「意次は以前から、実力ある蘭方医らを支援していたので、彼の家には新進医師が多数出入りしていた。意次は、将軍家治重病にあたり、古い漢方の老御典医にまかせておくのは心もとなく思い、彼の信ずる若林敬順、日向陶庵の両名を推挙し、内殿に召して立ち合わせた。しかし八月十九日伺候した敬順らは、わずか一日で翌二〇日には退けられてしまった」

ふたたび『星月夜萬八実録』から。その後、家治が亡くなると、御三家の水戸治保が登城し、在城していた老中はじめ諸役人と協議して、老中の登城や出入りを差し止めた。そのうえで、老中首座で娘を田沼意知に嫁がせていた松平康福を小石川の自邸に呼び、意次の様子を問いただした。治保は以前から、将軍が意次にやりたい放題にさせているので、諌めようと思っていたのだという。そして尾張や紀州と話し合い、意次の処分を決めたという。