この流れからすると、家治の容態急変の責任を、意次が推薦した医師に体よく押しつけ、意次による家治毒殺説をでっち上げた、という可能性もあるように思えてくる。
家治の死で得をした人物
たとえ家治が死去しても、世継ぎとしてすでに「家」の通字を授けられていた嫡男の家基が健在なら、意次の地位は安泰だっただろう。だが、安永8年(1779)2月、元気な盛りに数え18歳で急死した。たとえ家基が世を去っても、意次の嫡男ですでに若年寄だった意知が健在なら、田沼政治が存続する可能性はあっただろう。だが、天明4年(1784)3月、殿中で佐野政言に斬殺された。
これまでも意次および田沼政治にとってのカギであり、最重要の人物、それも次代をになう人物が相次いで急死していた。そこに意次の最後の支えである将軍家治の、あまりに急にして不審な死。
ちなみに、意次は老中を罷免されたのち、閏10月5日には謹慎処分になるとともに、老中時代に加増された2万石を召し上げられた。さらに翌年10月には、蟄居および致仕(官職を退いて引退すること)を命じられ、残された3万7000石も召し上げられた(辛うじて1万石だけ孫にあたえられた)。
これらの処分を主導したのは御三家および御三卿、とりわけ、新将軍家斉の父で、「べらぼう」では生田斗真が演じている一橋治済だった。治済はその後、松平定信を老中に推薦しながら、定信が自分の意に添わなくなると罷免させるなど、将軍の父として絶大な権勢を誇った。
家治の死去が人為であったかどうかはわからない。だが、死をめぐって政治的な思惑が重なっていたこと、あまりに急で異常な死であったこと、その死で得をした人物がいたことは疑いない。
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
