子どもに必要なのは「贈与」としての体験

 昨今の体験ブームについて、阪田さんには思うところがある。体験の重要性が強調され、子どもの貧困問題とも結びつけられた結果、子どもに「体験」を提供することがソーシャルグッドだと思われるようになった。NPOも企業も行政も乗り出し、お金がかかる「体験」が量産される。なんでもかんでも「体験」だと銘打てばソーシャルグッドの仲間入りという風潮だ。

「子どもに必要なのは交換(消費)としての『体験』ではなく、お金の臭いを感じさせない贈与としての体験です」と阪田さんは断言する。

 お金を払えばメニューから選べて誰でも参加できるような体験や、たくさんお金を払えばもっとさせてもらえるような体験は、交換(消費)としての体験。そのような体験では、子どもに力は湧かない。さらなる贈与の動機づけにならないということだ。

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 交換(消費)としての体験から得たもの(たとえば学力や非認知能力)は、さらに価値のあるものとの交換(消費)に使われる可能性が高い。

 どんなに文明が発展し科学技術が進歩しても、私たちが原生自然からの一方的な贈与によって生かされている事実に変わりはない。いくらお金を払っても、太陽、大地、水、そこに育つ動植物からの恵みは約束されない。

 そして子どもたちも、共同体への贈与である。存在そのものがありがたい。この強い動機こそが、阪田さんたちを突き動かしている。彼らの活動は、お金をもらえるから頑張る、少ないから手を抜くといった交換原理で成り立つサービス業とは一線を画す。

神戸YMCAは1950年から余島でキャンプを実施している ©おおたとしまさ

「救うよりも、余力のある友達になれ」

 神戸YMCAのカウンセラーの学生たちには、恵まれた家庭の出身者が多い。そんな若者がYMCAのキャンプで、大学生になることが想像できない子どもや虐待を受けて育った子どもに出会うと、ショックを受けて思い詰めてしまうこともある。「自分だけのうのうと大学に通って高学歴を身につけるのはずるいんじゃないか」と。

 しかし阪田さんは、「一喜一憂するな。まずは自分の人生に最善を尽くせ。そんな程度の覚悟で他人の人生を救えるわけがない。救うよりも、余力のある友達になれ」と伝える。たまたま恵まれているという贈与を受けているなら、それをありがたく受け取って、最大限生かして、いかに社会に還元するかを考え抜くことが使命だということだ。

 用意された感動や学びをこなすのではなく、ただそこにある時間と空間の中で、子どもが自ら何かを見つけ出すのを待つ————。それは、効率や成果が求められる現代社会に暮らす大人にとっては、ある種の修行なのかもしれない。しかし、その先には、お金では決して買うことのできない「贈与」としての体験が待っているはず。

 良かれと思って行うその先回りやお膳立てが子どもたちから大切な機会を奪ってしまっていないか、大人は謙虚になって考えてみてほしい。

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