第2点は、第15軍の3個師団の師団長だった柳田元三、山内正文、佐藤幸徳の3人の中将や歩兵団長の宮崎繁三郎など各師団の連隊長などの評判がいいことだ。3人の師団長は、それぞれの立場で牟田口の作戦計画に反対し、作戦が始まってから罷免されたのは、兵士のことを思ってのことで、彼らは自らの軍歴が汚れることなど意に介さなかったと讃えるのである。
第3点は、自らの戦争体験を語るときに数珠をもっている者が多い。それも手を丸めるようにしていて、対手(あいて)には見えないように心配りをしているのである。第4点は、具体的に戦場での体験を語るときに5分も話しつづけると、だいたいが嗚咽する。あるいは、目に涙を溜めている元兵士がほとんどだった。
第5点、これが重要なのだが、兵士たちは大本営主導で書かれている戦記をまったく信用していない。それどころか現実の戦場の様子を理解していない軍官僚の作文とまで極言する兵士もいる。
そういう公刊書に対して、第15師団(祭)第60連隊関係の戦友会(21団体が加盟)のように、昭和44年に自分たちの部隊の戦況を克明に整理し、830ページの大著(『二つの河の戦い』)を私家版で発行した例もある。
「発刊のことば」には、「本書発想の刺激ともなった他の既刊図書の内容には問題がきわめて多いので、あくまでわが連隊独自の立場から、なし得る限り正確な経過を探究し、各篇において十分とまではゆかないが解明を試みた」という一節がある。
国民に知らされなかった本当の戦況
インパール作戦は、昭和19年3月8日にはじまり、7月4日に作戦中止命令がだされた。むろんこれは大本営の命令が発動された日ということであり、実際に牟田口が撤退命令をだしたのは7月15日のことである。兵士たちは英印軍の追撃を受けながら退却しつづけていたが、その結末はきわめてあいまいで、その後の英印軍との新たな戦いに投入された者も少なくない。
したがってインパール作戦での日本軍の将兵の戦死者、戦病者も不明なのだが、公式には戦死者3万502人、戦傷者4万1978人とされている。しかし、戦傷者のなかからものちに多くの戦死者がでている。結局、7万5000人近くの将兵が死亡したとの推計もある。
もう1つ別な数字をみると、インパール作戦の終結時の各師団の将兵は、第31師団(烈)は約5500人で開始時の8.5パーセント、第15師団(祭)が約3000人(9パーセント)、第33師団(弓)は約3300人(9パーセント)にまで減っていた。



