さらに音田は、インパール作戦が始まって以来、精神のバランスを崩した将兵をなんどもみたといって、マンダレーの兵站宿舎での将校の姿を描いている。イギリス軍の爆撃音を耳にすると、防空壕に入ろうとする兵士たちに向かって、

「皆さん早く外に出て下さい。英軍・レインビヤン(ビルマ語で飛行機)は、ただ今東京を爆撃中であります。だがここはケサムシブ(ビルマ語で心配無用)です。防空壕に入ることは必要はありません」

 と叫んで走り回るというのである。そして音田は、「長期の病気で、極度に衰弱している身体で、連日敵機に爆撃、機銃掃射を浴びせられたり、また身近かで戦友が倒れてゆくのを見せられては、発狂するのも無理はなかった。何気なく『東京を爆撃中』といったのは、東京を恨みながら、戦っていたからであろう」と書き残している。

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 将兵たちは、このような作戦を最終的に認めた大本営に対して、あるいは作戦参謀に対して、憎しみにも似た感情を心底でたぎらせていたことにもなるのだ。

第2次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」 ©時事通信社

激戦地から生還した将兵に共通する5つの言動

 私は、これまで昭和陸軍の検証を志して何人もの将兵に会ってきた。いつとはなしに、ニューギニア戦線やガダルカナルに従軍した兵士と、インパール作戦にしたがった将兵には共通の言動があることに気づいた。平成という時代に入っても決して戦場の怒りを忘れていない。彼らに共通する言動とは次のような内容である。5点だけを抽出しよう。

 その第1点は、第15軍司令官の牟田口廉也中将の名を聞くと言葉をふるわせるのだ。 

 第15軍の第31師団にいた兵士は、私が「1兵士として牟田口をどう思っているか」と尋ねたときに、それまでの温厚な口ぶりは一変して、「あの男を許せない。戦後も刺しちがえたいと思っていた」と激高した。その変わりようがあまりにも大きいので、私のほうが恐怖感を味わったほどだった。

 私は断言するが、インパール作戦の生存兵士は、「牟田口廉也」という名を聞いただけで人格が一変する。それほど憎しみをもっている。「無謀な作戦」「補給なき闘い」「一高級軍人の私欲からの作戦」といった歴史的な評価を憤っているのではない。

 白骨街道を退却する兵士、あるいは飢餓に倒れていく兵士たち、彼らは新しく投入されてきた後続部隊の兵士たちから「牟田口司令官は明妙の司令部で栄華をきわめた生活をしている」と聞かされ、真偽は不明だが、その報は矢のように前線の兵士たちに伝わっていったのである。

 われわれがこれほど苦労しているのに、なんということか、という怒りは消えていない。インパール作戦での日本軍兵士の第1の敵は軍司令官、第2は雨期とマラリアの蚊、第3は飢餓、そして英印軍はやっと4番目だと戦場で話し合ったという生存兵士もいるが、それが現在にもつづいている。