この作戦は約13万人余の将兵が投入されて90パーセントの将兵が戦死ないし戦傷を受けた計算になる。太平洋戦争の戦闘のなかでももっとも大きな被害を受けた戦闘であったが、大本営発表は8月12日15時30分にインパール作戦について短い発表を行っただけで、その被害の甚大さについて国民は戦後になるまでまったく知らなかった。

 つけ加えれば、大本営発表はインパール作戦については極端に少ないが、3月、4月に限って戦況の有利さを誇る内容があった。たとえば4月8日の大本営発表は、「一、我新鋭部隊は印度国民軍と共に4月6日早朝インパール=デイマプール道上の要衝コヒマを攻略せり 二、カーサ附近一帯の敵空襲部隊に対する攻撃は順調に進捗(しんちょく)しつつあり」という具合であった。

 が、その後はほとんどふれられていない。8月12日の発表にしても「緬甸(ビルマ)方面目下の戦況次の如し」ではじまり、「南部印緬国境方面」「中部印緬国境方面」「北部印緬国境」「怒江方面」の項目に分け、敗北そのものを伝えずに、微妙な表現でぼかしていた。「中部印緬国境方面」は次のように発表しているのである。

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「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし我部隊は8月上旬印緬国境線附近に戦闘を整理し次期作戦準備中なり」

 このころは「攻略しつつあり」とか「進捗しあり」「対峙しあり」という語が多いのだが、この「作戦準備中なり」といった表現もしばしば用いられた。しかしこのときの「北部印緬国境附近」という発表のなかには、「我部隊は……夜間敵の包囲を突破し後方要点に撤退せり」とあり、戦況は甘くないと伝えるようにもなっていた。

写真はイメージ ©アフロ

インパール作戦の「悲劇」の真実

 だがインパール作戦が大本営発表でそれほど詳細に知らされなかったのは、この期の戦況がすでに日本に勝算がないことが明らかになっていたからだった。

 2月にマーシャル諸島がアメリカ軍の手に落ち、まもなくトラック島にもアメリカ軍の猛火が浴びせられ、4月にはニューギニア北部のアイタペやホルランジャにもアメリカ軍が上陸してくる。6月にはサイパンにも上陸がはじまり、むかえ撃つ日本軍は「あ号作戦」を発動して、連合艦隊がでてマリアナ諸島付近の制海権を奪おうと試みるが失敗している。日本海軍は、今や空母や航空機の大半を失った。

 7月7日、サイパンの守備隊は全滅。それに伴って重臣の間に東條内閣の倒閣運動が起こり、東條は天皇の信を失って辞任している(7月18日)。

 戦果があがらないインパール作戦の内実など、国民に知らされるわけはなかったのである。国民の士気を鼓舞する戦果がなに1つなく、高級指揮官の誤りを隠蔽しつづけたところにインパール作戦の「悲劇」はあったといっていい。

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