暢さんは病状がさらに悪化してからも、痛いとか苦しいと口にすることがありませんでした。本当は辛いはずなのに、それよりも先生と私がうまくやっていけるかを気にしているのです。私には夫も子もいないので、暢さんの夫を思う無償の愛、夫婦の絆には心を揺さぶられました。
一方、先生もまた、暢さんが亡くなった後、リビングの隣のお茶室に暢さんのお骨を1年間安置し、毎晩電気をつけ続けました。生前の暢さんは電気の無駄遣いに厳しい人でしたが、先生は「寂しいから、つけておいてあげよう」と言ったのです。
奥様を失った先生は、本当は泣きわめきたいのだろうと思いましたが、必死に耐えている様子でした。一人の時は眠れなかったり、泣いたりしたこともあったでしょうが、人がいる時は仕事に黙々と打ち込んでいました。
ちょうど『アンパンマン』のアニメが放送されてからは、フレーベル館からアンパンマンの絵本の依頼が次々と舞い込み、先生はそれを黙々と引き受け、仕事に集中することで気持ちを紛らしているように見えました。
戦友でもあったかけがえのない妻を失った
暢さんの存在は、やなせ先生にとって経済的な支えだけでなく、精神的な支柱でもありました。妻であり、戦友であり、かけがえのない存在だった奥さんを失った先生が、周囲に悲しみを見せまいとする姿を、私は間近で見ているしかできませんでした。
とはいえ、先生の生活が不便になることは避けなくてはいけない……。そう思い、当時のアシスタント達は、先生のために昼食を当番制で準備し、夕食は私が用意し、一緒に食べることになりました。就職した当初は先生に昔のことを聞いても教えてもらえなかったものですが、次第に夕食の後にぽつりぽつりと話してくれるようになりました。そうして聞いたもの、私がメモを書き溜めたものが『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておき話』(小学館)になったのです。