水の江といえば、戦前の松竹少女歌劇団で「ターキー」の愛称で男装の麗人として人気を集めたスターだ。戦後はタレントの仕事と並行して、映画会社の日活のプロデューサーとして石原裕次郎を発掘するなど辣腕を振るっていた。和泉もそのお眼鏡にかなったらしい。

水の江瀧子 ©文藝春秋

 和泉が晩年、月刊紙で連載した自伝エッセイによれば、公開放送の控室で、水の江が彼女を日活に貸してほしいと金語楼に直談判して、あっという間に映画出演が決まったという(「マコのよもやま話」連載6、「日本老友新聞」ウェブサイト2022年9月2日配信)。

吉永小百合、松原智恵子とともに「日活三人娘」に

 このとき、日活側からは「子供はいらない」と断られたものの、水の江は会社に内緒で和泉を二谷英明主演の『七人の挑戦者』(1961年)に出演させてしまう。当時13歳の和泉は年齢よりも上の18歳の事務員の役で、化粧した上、タイトスカートとハイヒールという出で立ちで大人になりきった。そのかいあって、日活の役員が完成した映画を試写で見るや「あいつは誰だ。すぐ契約しろ」と言い出し、日活への入社が決まる。

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和泉雅子さん ©文藝春秋

 同じ1961年入社には高橋英樹、中尾彬、松原智恵子がおり、松原とは前年入社の吉永小百合とともに「日活三人娘」として売り出された。3人そろっての共演はなかったものの、日活の控室ではしょっちゅう一緒だった。そこで吉永はいつも、セリフを覚えるのが一段落すると学校の勉強を始めた。その姿を勉強嫌いの和泉は尊敬のまなざしで見ていたという。ちなみに和泉と吉永はお互いをマー坊、サー姉ちゃんと呼び合っていた。

吉永小百合とは映画『若草物語』(1964年公開)などで共演も

一度は断ろうとしていた、和泉の代表作『非行少女』

 和泉の日活時代の代表作と自他ともに認める『非行少女』(1963年)は、前年に吉永主演の『キューポラのある街』で監督デビューした浦山桐郎の第2作だった。和泉は最初にその台本のタイトルを見るや、不良の役なんて無理だと断ろうとしたところ、会社の人から「小百合ちゃんも浦山監督の『キューポラのある街』で女優として成長した。マー坊も15歳になったんだから、この作品で成長しようね」と言われ、サー姉ちゃんの二匹目のどじょうになれるならやっちゃおう、とすぐに心変わりして引き受けることにする(「マコのよもやま話」連載15、「日本老友新聞」ウェブサイト2023年8月17日配信)。