大先輩・越路吹雪から提供された大ヒット曲
日活ではその後も、高橋英樹との『男の紋章』シリーズ(1963~66年)、舟木一夫との『絶唱』(1966年)などのヒット作に出演する。山内賢と共演した『二人の銀座』(1967年)は、前年に彼とデュエットした同名の曲が大ヒットしたのを受けて制作された。
この曲はもともと、エレキギターの演奏で当時ブームを巻き起こしていたバンド・ベンチャーズが「Ginza Lights」のタイトルで、歌手で俳優の越路吹雪に提供したものだったが、彼女が「私の曲じゃない。雅子ちゃんにあげて」とかわいがっていた和泉に譲ってくれたのだ。
だが、音痴を自認する彼女は音符だらけの楽譜を見て、自分には無理だとディレクターに断ろうとした。しかし、譜面の裏には越路からのメッセージで「雅子ちゃんは歌が下手。でも、味は世界の歌手にない凄いものを持っている。だから、まったく味がない、楽器のように歌える男性とデュエットすると、この曲は、きっと大ヒットするよ」と書かれていた。大先輩の助言に彼女はこの曲に挑戦する気になる。
作詞は子役時代から親しかった永六輔に頼んで、「二人の銀座」というタイトルが生まれる。そして「味がなくて、楽器のように歌える」デュエットの相手は、音楽にも才能を発揮していた同じく日活専属の山内賢に務めてもらうことにした。
和泉が大泣きしてレコーディングは中止に
しかし、いよいよレコーディングという日、スタジオ入りの前に山内と初めて音合わせしたところ、山内がハモって歌ったのを、彼女は「賢ちゃんが自分と違うメロディーを歌った」と勘違いして泣き出してしまう。おかげで声が嗄れ、レコーディングは中止。その後も、2度目、3度目と予定されながら、足がつったり、風邪を引いたりで延期され、ようやく4度目にしてレコーディングできたのだった。
山内とはお互い日活を辞めてからも交流が続き、彼のステージや音楽番組で「また一緒に歌おう」と誘われたが、「歌は下手だからもう無理」と断り続けたという。それがのちに山内に肺がんが見つかってからは、依頼されるたび引き受けた。彼が2011年に亡くなる直前には、感謝の意を込めて真珠のブローチをプレゼントされたとか(『週刊現代』2021年12月4日号)。
60年代後半以降、テレビの普及もあり、映画業界は斜陽の道をたどった。日活も経営不振から1971年には成人映画のロマンポルノへ路線を転換する。和泉はそのなかで二谷英明とともに、会社から辞めてほしいと言われる最後まで日活に残り、フリーに転じた。


