『非行少女』の撮影は別の出演作の撮影を挟み、4ヵ月かけて行われた。前半2ヵ月間の金沢ロケのクライマックスは、相手役の浜田光夫と駅で別れるシーンの撮影だった。しかし、その日はちょうど愛読していた『少年マガジン』の発売日と重なり、彼女はソワソワしてしかたがない。とうとうたまらず、浦山監督に「40円貸して」と頼んでしまった。浦山はお金を貸してはくれたものの、主演の彼女が撮影を抜けてマンガを買いに行ったのがショックだったらしく、台本を叩きつけて監督を降りようかと思ったほどだったと、のちに明かされたという。

映画『非行少女』(1963年公開)

厳しくしごかれ、「監督を殺してやる」と…

 じつは当初の予定では主演は別の俳優だったが、それを会社命令で和泉に変更されたのが浦山は気に入らなかったらしい。だから監督は自分をしごきにしごいて、逃げ出すのを待っているのだと和泉は思い込んでいた。実際、浦山の指導は厳しく、悪口雑言が飛び出すときはまだましで、何も言わずに延々と撮り直しを繰り返されるのが彼女には本当に怖くて、つらかったという。当時の日記にも、毎日毎日「監督を殺してやる」と書いていたらしい。

 しかし、撮影も後半に入ったある日、試写室でラッシュを見ていた浦山に呼ばれると、画面を指差して「あの目の使い方を忘れるな」と言われた。それは、頭を動かさずに、目だけで相手の目と胸のあたりに視線を動かすシーンだった。その翌日からの撮影は、それまでとは打って変わってスムーズに進むようになり、彼女は浦山が言ったのは褒め言葉だったのだと気づく。

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浦山桐郎監督 ©文藝春秋

《撮影は、そうこうしてようやく終了した。フィルムを見ると、後半の私は自分で見ても驚くほど「非行少女」化していた。日々しごかれ、いじめられて、私の気持ちはすさみ、なげやりにもなっていたが、これこそが監督の狙いだったのである》(『週刊朝日』1990年11月9日号)

 完成した映画はモスクワ映画祭で金賞を受賞し、審査員のフランスの名優ジャン・ギャバンからは「この子は将来が非常に楽しみだ」と評された。和泉は『非行少女』と浦山監督との出会いがあったから、その後も女優を続けてこられたと、ことあるごとに語っている(『週刊朝日』前掲号/『キネマ旬報』1992年9月上旬号)。