日活にいたころからテレビにも出演するようになる。とりわけTBSのドラマプロデューサーだった石井ふく子との出会いは大きく、彼女が手がける大ヒットドラマ『ありがとう』や単発ドラマ枠だった「東芝日曜劇場」に出演し、これをきっかけに日活退社後はドラマと舞台(石井は舞台では演出を手がけていた)をメインに活動するようになる。日本舞踊を「演技に役立つから」と習うよう勧めてくれたのも石井で、おかげで名取にまでなった。

「東芝日曜劇場」のドラマではチンドン屋、活動弁士、炉端焼きやお好み焼き屋など職業を持つ娘役が多かったことから、チャキチャキの下町娘のイメージがつく。クイズ番組『ほんものは誰だ!』(日本テレビ、1973~80年)では毎回和服で出演し、解答者席で隣り合わせだった作家・柴田錬三郎との丁々発止のやりとりが人気を集めた。

クイズ番組『ほんものは誰だ!』(日本テレビ)の収録現場での1枚。和泉と柴田錬三郎(右)のやりとりは人気を集めた ©文藝春秋

 30代に入ってからは、『舞いの家』(TBS、1978年)というドラマで、義兄と通じる妹役で毎回のようにベッドシーンを演じるなど、従来の娘役のイメージから脱却していく。1982年放送の3時間ドラマ『女ともだち』(TBS)では、歌手の加藤登紀子のほか、大原麗子、大谷直子、泉ピン子、倍賞美津子、伊東ゆかりという錚々たる女優陣とともに35歳になった高校のクラスメイトの一人を演じた。和泉は、独身で堅実な銀行員だが、じつは公金を男に貢いでいるという役どころだった。

ADVERTISEMENT

 このドラマの出演者が集まった座談会で和泉は、現実でも役と同じく独身ゆえその気持ちがよくわかると打ち明け、《ひとりぼっちだから、なにかしなきゃいけないと思って、4月にマラソンに出ようと思ってるの。(中略)寂しいとか辛いとかあるだろうけど、私はいまが楽しいからいいと思ってるの》と語っていた(『女性セブン』1982年4月8日号)。この発言には当時の彼女の満ち足りない心情が何となくうかがえる。のちに語ったところでは、以前とくらべると俳優としても売れなくなっていた時期だという(『週刊文春』1990年11月8日号)。

人生を変えるチャレンジへ

 テレビ番組のレポーターとして南極に行く仕事が舞い込んだのは、この翌年、1983年末のことだった。出発のわずか3日前であったという。和泉は寒いのがじんましんが出るほど大の苦手で、しかも南極に行くには飛行機にも船にも乗らねばならないのに、両方とも大嫌いだった。しかし好きなペンギンに会えるということで、引き受ける。まさか南極行きがきっかけで、その後の自分の人生を一変させるような壮大なチャレンジに取り組むことになるとは、このときの彼女には思いもよらなかっただろう。

次の記事に続く 「彼女はおかしくなった」と囁かれ、現地では女性特有の悩みも…41歳で北極点到達を果たした女優・和泉雅子(享年77)が残した“大切なメッセージ”