7月9日に原発不明がんのため77歳で亡くなった、俳優で冒険家の和泉雅子さん。10歳から子役として活動し、吉永小百合、松原智恵子とともに「日活三人娘」と呼ばれ数々の青春映画に出演。さらに日本人女性として初めて北極点に到達するという偉業も成し遂げた。その足跡とは?(全2回の2回目/はじめから読む

故・和泉雅子さん〔2007年撮影〕 ©文藝春秋

◇◇◇

 和泉雅子は1983年12月から翌84年1月にかけてテレビのロケで南極を訪れ、見渡す限りの空と海に大感激する。帰国後には、南極の反対側はどうなっているのだろうと興味が湧き、地球のてっぺんである北極点の景色が見たいという壮大な夢を抱くようになった。

ADVERTISEMENT

 夢を実現する第一歩として、まず、南極で撮ったペンギンの写真で写真集を自費出版し、それを売って北極に行く資金を集めることにした。だが、やたらと凝ったため制作費が高くついたのにもかかわらず、定価を880円と不相応に安くしてしまった。おまけに書店では取次店を通さないと売れないとあとで知り、自ら手売りして歩くはめになる。

支援を求めるも、相手にされなかった

 その一方で、支援を求めてテレビ局や番組制作会社のほか企業をいくつも回ったが、ほとんど相手にされない。「こういうことは無名の冒険家や研究者がやるから意味があるんだ」などと言われて門前払いされ、業界では「和泉はおかしくなった」とも噂されていたらしい。それまで冒険とは無縁だった女優がいきなり北極点に行きたいと言い出したのだから、無謀と思われたのも仕方あるまい。

若き日の和泉雅子さん ©文藝春秋

 それでも彼女は本気であり、やがてその情熱に動かされる人も出てきた。冒険家の故・植村直己の夫人は、植村に先んじて北極点に到達した日本大学遠征隊の元隊員である五月女次男を紹介してくれた。北極行きのスペシャリストである五月女からアドバイスを受けるようになると、計画は徐々に具体化していく。

 そのなかで父には出発の1ヵ月前まで言い出せなかった。父は厳しい人で、和泉が映画会社・日活の専属だったころに、仕事以外でケガをしては会社に迷惑がかかるとの理由で外出を禁じたほどだった。それだけに簡単に北極行きを許してくれるわけがない。そこで彼女は作戦を立てた。まず「宇宙に行ってもいい?」と訊き、「宇宙? とんでもない。地図があるところならどこでもいいぞ」との返答を引き出すと、待ってましたと地球儀の北極を指差して「ここに行きたいんだけど」と切り出したのだ。これにはさすがの父も不承不承許してくれたとか(『週刊文春』2007年3月15日号)。