このあと北極点に再挑戦すべく、資金稼ぎのため全国各地を講演して飛び回る一方、年に1回は北極に行って装備のテストをした。1度目の遠征での失敗を土台に、再び北極点に向けてワードハント島から出発したのは1989年3月10日だった。このときの遠征隊も日本人は彼女を含めて3人、イヌイットは2人という布陣となる。
順調に進めば極点には4月20日頃に到達する予定だったが、コースの初めの100キロを通過するのに22日間を要するなど、前半から試練の連続であった。第一関門を突破しても、隊はなかなか進まず、隊員たちが疲労困憊するなか和泉が肺炎にかかったこともある。しかし、彼女は、《自分自身で決めてここまで来たのだ。とにかく絶対に安全を確保しながら、やれるところまでやってみるのだ、マコ》と自分に言い聞かせて、気力を取り戻す(和泉雅子『笑ってよ、北極点』文藝春秋、1989年)。
世界で2人目、日本人女性では初の快挙を達成
前回、退却を決めた地点の周辺では、このときも大きなリードに何度もつかまったが、格闘の末、切り抜けた。極点まであと一歩というところではブリザードに阻まれる。こうして数々の苦難を乗り越えながら、前回の遠征と奇しくも同じ62日をかけて5月10日、ついに北極点に到達した。女性では世界で2人目、日本人女性では初の快挙だった。このときのことを彼女は《へとへとに疲れていましたので、何が何だか分からず、ボーッとしていました。下町風に隊員みんなで、三本じめをしました》と振り返る(『Number』1989年6月20日号)。
北極行を経て変わったこと
北極での経験を通じて和泉はすっかり変わった。最初の遠征から帰国後は、生まれ育った東京の生活になかなか慣れなかったという。《人が歩いているのを見ると気持ち悪くなっちゃって。色彩が街中にあふれてて、人酔いしちゃうんですね》(『主婦の友』1985年9月号)。体質も変わり、もともとは寒いのが苦手だったのが、一転して暑いのがだめになった。極点到達後は夏ともなると東京にいられず、北欧へ出かけ、1997年に北海道士別市にログハウスを建ててからは、そこで夏の3ヵ月間をほとんどすごした。
最初の北極遠征以来、カメラの腕も磨き、1994年にはそれまで10年間に北極と南極に行くたび撮りためた写真をまとめて『ハロー オーロラ! 和泉雅子写真集』(文藝春秋)も出版している。その前年、サイン会で世話になった書店員に「来年、写真集を出すんです」と伝えたところ、相手から複雑な表情で「和泉さん、脱ぐんですか?」と訊かれたという笑い話が残る。ちょうど女優のヌード写真集がブームになっていたころだった(『週刊文春』1994年1月13日号)。

