2度の遠征で、北極の風景に魅了されるばかりでなく、そこに暮らす人々と交流するのが楽しくなった。そのため北極点到達後も、カナダ、グリーンランド、ロシアなどの北極域に毎年出かけるようになり、彼女は北極を自分の「ライフワーク」とも「最大の趣味」とも称した。北極点到達から6年後には《2~3か月仕事をすると休息を取りたくなって北極に出かけ、1か月ぐらい過ごすとストレスがすっかりとれて、猛然と仕事をしたくなるんです。で、帰ってからは、命懸けで仕事に取り組みます》と語っている(『クロワッサン』1995年3月10日号)。

俳優の仕事は「好きじゃないのよ。やらなきゃ終わらないと思うから…」

 そもそも勉強が嫌いで俳優の仕事を始めた和泉だが、その後、監督から厳しく演技指導されても、なぜ頑張ってここまで続けてこられたのか、やっぱりこの仕事が好きだったからではないか?――後年、同じく子役出身でのちに親友となった中山千夏からそんな質問をされ、彼女は《いや、好きじゃないのよ。やらなきゃ終わらないと思うからやるの。いつもそう。せりふだって覚えなきゃ終わらないと思うから、必死で覚えていただけよ》と答えていた(中山千夏『ぼくらが子役だったとき』金曜日、2008年)。北極はそんな仕事に対しての義務感から彼女を解放してくれる場所だったのだろう。

 若い頃は人から世話してもらってばかりいたのに、北極遠征を経て、人の面倒を見るのが好きになった。熊本の女子高校で講演したのが縁で、その学校の生徒を引率して北極に行ったこともある。知り合いを連れてのオーロラツアーは2013年の時点で50回を数え、宿泊先では彼女自ら、参加者全員に朝昼晩、手料理をふるまった。士別の家でも、夏には4500坪ある敷地の草刈り、年に1ヵ月半ほどすごす冬の暖房用に2トンの薪割りと、体を動かすのをいとわず、また、母や友達が泊まりに来るたび3度の食事をつくっていたという(『ゆうゆう』2013年10月号)。

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和泉雅子さん〔2023年撮影〕 ©文藝春秋

きっと誰の中にも「自分だけの北極点」がある

 北極のおかげで和泉の後半生は、それ以前にも増して豊かなものとなった。もちろん、誰でも北極に行けるわけではない。しかし、彼女は世の人々に向けてこんなメッセージを残している。

《自分の好きなこと、興味を覚えることが見つかれば、おのずと自分の中の可能性や才能が花開き、実り多く楽しい人生を送ることができるはずです。私にとってそれは北極点でしたが、きっと誰の中にも「自分だけの北極点」があるんじゃないでしょうか》(『婦人公論』1999年6月22日号)

 ちなみに和泉が北極点を目指すと思い立ったのは36歳、実現したのは41歳のときだった。夢を持つのに年齢は関係ないこと、そして、最初は誰からも理解されず、途中でどれだけ失敗しても、何度もチャレンジして夢をかなえたことと、たしかに彼女の生き方には励まされるばかりだ。

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