利用客数が1日2万人→2000人に激減

 アドバンテージだった市電との乗り継ぎという役割を失い、さらにシンボルの駅舎も失われれば、衰退するのも無理ない話。

 さらに震災をきっかけに都心から郊外への人口移転が加速し、伊勢丹や松屋も神田から去っていった。

 

 日本一の繁華街・神田の町は、震災を機に大きく形を変えてゆく。万世橋駅の急速な凋落は、それを象徴するようなできごとだったのかもしれない。

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 震災後、万世橋駅は新たに簡素な駅舎が建てられた。

 さらに1925年には上野~神田間が開通して山手線の環状運転がはじまった。秋葉原駅も旅客営業を開始し、万世橋駅の立場はますます寂しいものになる。

 

 かつて1日2万人ものお客が行き交ったターミナルも、昭和の初めには1日2000人程度のお客がパラパラと。巨大な駅舎が消えた跡には交通博物館が開業し、むしろ博物館の方が存在感を高めていった。

 

 そうしてお客が減り続けたその流れのままに、万世橋駅は1943年に休止、そのまま廃止されてしまう。

 特にお客が多いわけでもなく、近くには別の駅があるからなくなっても利便性は損なわれない。

 そんな駅が戦時中という緊急時にあって閉ざされるのも仕方がなかったのだろう。