――私(ライターの近藤正高)が坂本さんに初めて会ったのもそのころですね。若いインディーズの芸人さんたちの集まるライブに出演していて。
坂本 そう、インディーズのライブを東京の中野にある、人の家の1階(通称「中野ハルコロホール」)でやってたんですよ。(漫才コンビの)米粒写経の居島一平さんが主催で。いま思えば、そこに猫ひろしさんとか、もう売れかけていたけどマキタスポーツさんもたまに出ていました。トキワ荘とは言わないけど、いろんな志の芸人さんたちが出たり入ったり出たり……まあでも、そうしたなかで私の芸人としての青春はもっぱら育まれたんですよね。
インディーズの芸人さんはネタが結構とんがったりしてるから、そういう人たちに通常の活弁では対抗できないと思って、そこで絵心が復活してね、ちょっと奇怪なアニメを自分でつくり始めて、それが一部で有名になり、そういうライブシーンで需要が出て。
それで何となく食えるようになってきたら、普通の活動弁士の仕事も増えてきて……という感じですよね。でも結局、続けてこられたのは人の縁ですよ。他人様のおかげ。ここの会社(マツダ映画社)の社長さんのおかげもあります。他にもたくさんいます。恩人は。
「君は活動弁士として1年のうち何日稼働してるんや?」と師匠に訊かれ
――それこそ(社長の)松戸誠さんからは最初、「活弁を仕事にするのは難しいよ」みたいなことを言われたそうですけど、坂本さんはそれでも仕事にしようと頑張っていたわけですよね。
坂本 それはさっき話に出た師匠の竜二さんがよく言っていたことですけど、ようするに「仕事というのはそれでおまんまが食えていることを言うのだ」と。「それで食えてない人間はプロではないのだ」っていう思想の人だったんで。
若いうちはやっぱり形から入りますわね。早々に「活動弁士」と刷った名刺なぞつくっちゃう。すると師匠がそれを見て、「君は活動弁士として1年のうち何日稼働してるんや?」って。それで正直に「そんな何日もないですね」って答えると「普段何してるんや?」と訊かれて、「それは竜二さんの付き人と、あとはビルの清掃とかもやってますし……」「ほな、君は、『山本竜二の付き人』『ビル清掃』っていう肩書も書かんとあかんやないかい。それで食うてるんやから」。
そんなふうにアマチュアリズムを嫌う人だったんです。それはなかなか耳が痛いっていうか、もう激痛でね。そんなこと言ったら日本の表現者の相当数は淘汰されちゃいますから。

