伊賀越え伝説から、半蔵正成は伊賀に住んでいて、家康を助け、それを機に徳川家臣に編入されたとの誤解されているような気がするのだが、徳川(松平)家に仕えたのは父・服部半三保長(はんぞうやすなが)(正種(まさたね)ともいう)の時からだという。半蔵正成は六男二女の兄弟の五男として生まれ、7歳で大樹寺に修行に出されたが、10歳で寺から脱走したという。つまり、半蔵正成は7歳の時に三河に在住していた伊賀者二世なのだ。だから、伊賀越えの時に、急に伊賀・甲賀の地侍を先導できたのかは非常に疑問だ。
幕府が開かれたとき「半蔵門」エリアを拝領
そして、半蔵正成は16歳の時、「伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを賞されて御持槍(長七寸八分両鎬)を拝賜す」(『寛政重修諸家譜』)。という。この戦は永禄5(1562)年の三河西郡(さいごおり)上郷城攻めの話で、実際は21歳のことらしい。家康側の武将・松井忠次は早くから伊賀者・甲賀者を召し抱えていたという証言があり、忠次がその人脈を駆使して忍びの者を使ったという(ちなみに、松井忠次は一般に松平康親(やすちか)と呼ばれ、老中・松平康福(やすよし)(「べらぼう」の相島一之)の先祖にあたる)。
半蔵正成もその一人に過ぎなかったのかもしれない。ただし、家康から槍を拝領するくらい、その時の働きが抜群だったのだろう。その後の軍歴は伊賀者ではなく、一般の三河武士と変わらない。たとえていうなら、社長(家康)に認められ、専門職(忍び)から総合職(一般の三河武士)に転職したのではないか。
そして、半蔵正成は元亀3(1572)年に伊賀者150人、天正18(1590)年の関東入国の頃、与力30騎、伊賀同心200人を預けられ、8千石を領した。また、江戸城西側の城門近く――俗にいう「半蔵門」――に屋敷を与えられた。
半蔵正成が死ぬと、伊賀者は空中分解し改易
ここで勘違いしやすいのは、服部半蔵が並外れた能力を持った忍びだったから、伊賀者を束ねていたという認識だ。たとえばである。日本の企業が国際部門を立ち上げた場合、その部長に外国人を据えたりするだろうか。国際感覚の豊富な日本人を部長にする方が圧倒的に多いだろう。