大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」に芸人・司会者の有吉弘行が演じる服部半蔵が登場。菊地浩之さんは「家康に仕えた伊賀忍者の頭目と同名だが、家康の直参になった服部家が改易されて越中・松平家の家臣になるまでには紆余曲折があった」という――。

写真=スポーツニッポン新聞社/時事通信フォト Amazon Prime Original「有吉弘行の脱ぬるま湯大作戦」配信記念記者発表会での有吉弘行(大河ドラマ「べらぼう」の服部半蔵役)、2018年8月2日 - 写真=スポーツニッポン新聞社/時事通信フォト

なぜ定信の家臣に服部半蔵がいるのか

8月31日放送のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、松平定信(井上祐喜)の家臣に服部半蔵(はっとりはんぞう)(有吉弘行)が登場した。忍者の頭目として有名な、家康家臣のアノ服部半蔵と同名だが、その子孫なのだろうか? そして、なぜ定信の家臣なのだろうか?

結論から言ってしまうと、定信家臣の服部半蔵正礼(まさよし)(?~1824)は、アノ服部半蔵正成の直系の子孫である。ではなぜ、定信の家臣なのかというと……その前に先祖の正成について復習しておこう。

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服部半蔵正成(まさなり)(1542~1596)は通称を半蔵(あるいは半三)、石見守(いわみのかみ)という(嫡男が「まさなり」なので、山田孝之が正成を演じた『どうする家康』では「まさしげ」と読んでいたが、『寛政重修諸家譜』のフリガナに従って、本稿では「まさなり」とする)。

家康の「伊賀越え」に功績があったというが…

天正10(1582)年6月に本能寺の変が起こった時、家康は堺(大阪府堺市)を遊覧中だった。報せを聞いた家康一行は、堺から伊賀(三重県伊賀市)を経由して、命からがら三河岡崎(愛知県岡崎市)に舞い戻った。これを「神君伊賀越え」というのだが、半蔵正成はこの時、伊賀・甲賀の地侍に案内させて伊賀越えを主導し、大きな功績があったという伝説がある。

あえて「伝説」と書いたのは、公式記録には半蔵正成の活躍が一文字も残されていないからだ。昭和9(1934)年に岡崎市が『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲』という書籍を編纂し、古文書や幕府編纂史料を参照して家康の業績を記しているが、「家康の伊賀越」には服部半蔵の名前は出てこない。