その部長の役割は、経営層や他部門の考えを咀嚼(そしゃく)して部下に指示することであって、部下の外国人の考えを集約して経営層に伝えることではないからだ。そう考えるに至ったのは、半蔵正成の死後、伊賀者の間に不満が鬱積して御家騒動が勃発。服部家が改易されてしまったからだ。

慶長元(1596)年に半蔵正成が死去すると、長男・服部石見守正就(まさなり)(1576?~1615)に5千石、次男・服部伊豆守正重に3千石が与えられた。

しかし、正就は慶長9(1604)年に不行状により改易されてしまう。幕藩体制に移行するにあたって、家康に仕えていた伊賀者は、服部家臣団に組み込まれていった。これに対して伊賀者は家康の臣下の礼を取ったが、服部家の家臣になった覚えはないと不満を漏らして反抗。正就はその動きを抑えられなかったのだ。

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長男の正就は大坂夏の陣で奮戦し、討ち死

ただし、同様の事例はその時期にはそこかしこにあった。たとえば、本多忠勝家中の重臣は、元々家康の直臣だった者が永禄9(1566)年頃に忠勝の与力にされ、忠勝が大名となるに際してその家臣になった。では、本多家中では不満が出ずに、服部家中で不満が出るのだろうか。これは野球選手出身でないと野球団の監督になれない論理(選手が監督に敬意を払わず、言うことを聞かない)と同じであろう。本多家中は忠勝の武人としての才能を評価していたが、伊賀者は服部半蔵の忍びとしての才能を評価していなかったのだろう。

正就の妻は、家康の異父弟・久松松平定勝の長女である。そのため、正就は定勝に預けられたが、その罪をそそがんがため、元和元(1615)年に大坂夏の陣で奮戦して討ち死にした。

半蔵正成の次男・正重は慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で抜け駆けして家康の怒りを買い、結城秀康(家康の次男)の取りなしで赦された。

半蔵の孫たちはどう生き延びたのか?

正重の妻は大久保長安(ちょうあん)の娘である。長安は甲斐武田旧臣で、金採掘に敏腕を振るい、佐渡金山開発などに従事。正重も佐渡に赴任した。しかし、慶長18(1613)年に長安の不正蓄財が露見し、その遺児が失脚・改易されてしまう。正重は無関係であると連座を免れたが、その命令書を越前(福井県)で受け取ったため、無断出国が違法として改易された。