正就・正重ともに改易されてしまったため、半蔵正成の子孫は幕臣として永らえることはなかった。

正就の長男・服部式部正幸は、11歳の時に父が討ち死にし、久松松平定勝の嫡男・久松定行に養われ、その家臣となった。また、次男・服部源右衛門正辰(げんえもんまさとき)も、定行の弟・久松松平定綱に養われ、その家臣となった。

正重は改易され、村上義明、堀直寄(ほりなおより)に預けられたが、寛永19(1642)年に堀家が無嗣断絶になったため、各地を流浪した後、久松松平定綱に仕え、2千石の家老となった(おそらく甥・服部正辰の手引きがあったのだろう)。子孫は代々家老を務め、「半蔵」を襲名した。

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松平定信が半蔵の子孫を重用していたワケ

松平定信はこの定綱の子孫の婿養子であり、冒頭の服部半蔵正礼は正重の子孫である。

松平定信が諸大名の人望が高く「黒ごまむすびの会」を主宰するに至ったのは、天明の飢饉(ききん)での対処が適切で、白河藩内に飢餓者が出なかったことであるが、江戸在府の定信に代わって、正礼が白河で飢饉対応に尽力していたのである。きっと有吉弘行のように抜け目なく、それでいて堅実な人物だったに違いない。

ちなみに、なぜ「服部」と書いて「はっとり」と読むのかといえば、もともとは機(はた)を織って服を作っていたことから、服をつくっていた部民(ぶのたみ)を服部=機織部(はたおりべ)といい、それが略されて「はっとり」と読むようになったようだ。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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